日本の城跡

高崎城

移築本丸乾櫓・水堀
訪問日 H14年 5月
ポイント 関東と信越を結ぶ交通の中心地。更に中山道の開通により江戸と大阪を結ぶ要路となり、碓井峠の戦略的価値が高まった為徳川家康は井伊直政に命じ、箕輪城を移して高崎に築城させた。二代将軍秀忠の三男忠長が兄家光に疎まれ自刃させられた城でもある。
印象 明治の軍隊の分駐、戦後の市役所、裁判所、音楽センターなどの建築で本丸や二の丸は破壊された。高層のビルが建っており様相は変わっているが三の丸外郭の土塁、水堀や移築復元された乾櫓が残っており僅かに城跡を偲ばしてくれた。土塁の桜が綺麗だった。
地図
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略史  戦国時代に和田氏が築いた和田城の跡を箕輪城主、井伊直政が徳川家康の命で築城した囲郭式城郭。その後酒井、松平、安藤等譜代藩として歴代幕府の要職を歴任。安藤重信、重長は秀忠、家光に仕え、徳川忠長の幽閉預り等で厚い信任を得、次の重博も改易大名の収城使を務めた。高崎城はこの時期に完成した。次の松平輝貞は柳沢吉保と綱吉の側近として幕政に携わったが綱吉没後失脚、転封したが吉宗の時再入封し老中格として享保の改革の推進に参画した。次の輝高も老中として田沼意次の片腕となり出世したが他方、助郷重課や絹の運上金の徴収に対する大一揆、打ち壊しの発生等意次政治への反発を受けた。最後の藩主輝声は陸軍奉行並になり関東譜代の重鎮として幕府を支えたが戊辰時維新政府に逸早く恭順し、小栗上野、長岡、会津討伐戦にも出兵した。
移築三の丸東門
移築本丸乾櫓・三の丸東門
   
三の丸水堀
三の丸公園
三の丸土塁
三の丸
移築乾櫓・水堀
三の丸水堀
三の丸より市役所
三の丸水堀
官庁・センター街の二の丸・本丸
 
本丸に建つ市役所