日本の城跡

河越氏館(別称:常楽寺城)

常楽寺・館
訪問日 H19年 5月
ポイント この地一帯は入間川の氾濫原を利用した大集落が弥生時代から中世に至るまで広がっている。当館は城郭と共に生活の場でもあった。鎌倉幕府の有力御家人であった河越氏は義経事件で連座失脚後復活、南北朝争乱期に平一揆を起こして没落する。
印象 歴史に度々登場。常楽寺、上戸小学校一帯で入間川のそば。土塁が残る。常楽寺の山門が風格ある。寺の他は現在、原っぱになっている、結構広い。小学生が学校、原っぱで野球をやっていた。
地図
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略史  桓武平氏の秩父氏から独立した河越氏がこの地域を支配する豪族と結びつき館が発展した。河越氏は重隆を祖とし、孫の重頼の妻は源頼朝の長男頼家の乳母となり、むすめは頼朝の媒酌で義経の妻になっている。このように河越氏は鎌倉幕府の有力御家人であったが、義経追討に及んで重頼も連座して命を絶たれ所領没収となったが、二年後後家尼に旧領が安堵され重頼の三男重員が幕府の重職についている。その後河越氏は鎌倉公方足利氏満に反抗して”武蔵平一揆”をおこしたが関東管領上杉朝房らに敗れ、一族は伊勢に追われ衰退した。館は以後時宗の常楽寺道場となった。
常楽寺・館
山門
消防器具
入間川土手・館方面
郭・土塁
土塁
郭・土塁
土塁