日本の城跡

喜多院(正式名称:無量寿寺喜多院)


慈恵堂(本堂)
訪問日 H8年10月、H27年 7月
ポイント 天海僧正と徳川家の厚い繋がり。家光誕生の間・春日局間がある、江戸城紅葉山御殿の一部移築し、今日江戸城の建物遺構が唯一残っている。江戸城背後の詰の城としての川越城の出城としての役目を持ち、深く広い空堀、土塁で固めている。
印象 ここが川越城跡ではと、間違うほどの空堀・土塁が残っていたのにびっくり。巡らされていただろう喜多院の空堀は、一部残っているが、旧中院に建つ東照宮は小高く、周囲には広く・深い堀が残っていた。江戸を守る川越は幕府にとって重要拠点であり、城の固めはもちろん藩主も幕閣の中心人物が置かれたようだ。
地図
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略史  平安初期、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が建立、無量寿寺と称した。無量寿寺は北院・中院・南院があった。その後兵火で炎上したが、鎌倉時代に伏見天皇が尊海僧正に命じて再興、関東天台宗の本山として栄えた。戦国時代に後北条氏と上杉朝定との争いで再度炎上した。しかし江戸時代に、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、北院を喜多院に改めた。そして川越藩主の酒井忠利に最高を命じ、徳川秀忠の時、関東天台総本山と定められ、寺領500石を賜った。その後、中院に仙波東照宮が建てられたが、川越大火で山門を除くすべての堂宇を焼失した。三代将軍家光は、藩主堀田正盛に再興を命じ、江戸城紅葉山御殿の一部を移築して、客殿・書院・庫理に当てた。この時新河岸川の舟運が開かれた。そして慈恵堂・多宝塔・慈眼堂・鐘楼門・東照宮等再建、200石の加増を受けて大寺となり徳川家の下で興盛した。なお南院は明治に廃院となった。

山門・番所

山門(内部より)

慈恵堂(本堂)

多宝塔

紅葉山庭園

遠州流庭園

庫理と本堂を繋ぐ渡り廊下

慈眼堂

以下境内にある五百羅漢


松平家廟所

空堀に架かるどろぼう橋

喜多院土塁

喜多院空堀

喜多院と東照宮間の空堀・土塁

同、遠くにどろぼう橋

東照宮

東照宮空堀

東照宮と喜多院間の空堀に架かる橋

東照宮の水堀

同にある社

同の水堀

東照宮へ

東照宮

古墳の上に立つ日枝神社

成田山川越別院

同山門

同本堂

不動明王像

亀・亀・亀