日本の城跡

福原館

郭内
訪問日 H23年11月
ポイント 箒川南岸の河岸段丘上に位置する。東西500m、南北350mの規模で、北は箒川に面して急峻で、東西に深い沢が入り、北を除く三方に土塁と水堀が巡らされていた。
印象 宅地・田畑になっており、遺構は残されていない。
地図
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略史  那須資隆の四男久隆は片府田を分知され福原氏を名乗った。久隆に子が無く、弟之隆の子を養子に迎えている。之隆は福原を分知され、同じく福原を名乗り、福原館を居城とした。那須本家の与一宗隆が死亡すると、福原之隆が本家を継ぎ、那須資之を名乗り、以後那須本家は福原館を居城とした。その後上那須氏の資之と沢村氏の家督を継いだ下那須氏の弟資重は不和となり、資重は敗れ烏山に逃れた。室町末期には上那須氏は家督相続争いで断絶、以後那須氏は下那須氏が統一していった。
遠望