日本の城跡

岩井山城(別称:勧農城・叶城)

遠望
 訪問日  H26年 3月
 ポイント  ここ勧農は中世において足利荘の中心にあり、当地に城塞を築くことは足利荘を支配することを意味した。当城は以前は渡良瀬川に南北を囲まれた丘陵に築かれ、山頂に土塁で囲まれた主郭を置き、その北東隅の最高所に物見台がある。南東の緩斜面に階段状に二の郭、三の郭を設けている。北の尾根は一段下がって郭となり、それより西は段階状の帯郭になっている。周りは急崖で、見晴しも絶好な天険の要害である。
 印象  城跡への道は結構難しい、まるで川の中にあるように感じた。昔の台風の氾濫の教訓から今の姿になったようだ。赤城神社参道から入る。周囲は急崖になっている。腰郭であったろう神社を通り、乳房地蔵を過ぎ山頂の主郭ヘ上る。虎口、郭、櫓台があるが、一面熊笹に覆われており分かりにくかった。馬出などもあり、小規模ながら面白かった。
 地図  
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略史  十五世紀中頃、関東管領山内上杉房顕の重臣長尾景人が足利将軍家の了承のもと、将軍家と古河公方足利成氏の争いの地となっている足利荘の代官として入部し勧農城を築城した。以後勧農城は下野における上杉方の唯一の根拠地として、他方下野支配を確固たるものにしたい古河公方方との攻防の最前線となった。その後十六世紀には足利荘は上杉氏の実質支配下にあったが、代官長尾景長は本拠地を古城の両崖山城を修築して移ったため勧農城はその支城となった。戦国末期、豊臣秀吉の小田原征伐で、後北条氏に与した長尾氏は滅亡し、勧農城は廃城となった。

遠望

登城道・案内

神社下の急崖

同にあった石塔残

赤城神社鳥居・腰郭

同腰郭

主郭切岸

赤城神社

主郭櫓台

城より

主郭切岸・石塁

乳房地蔵裏の石仏

乳房地蔵(裏側)

郭(居館跡)

大手馬出

虎口



主郭切岸

同・石塁


主郭櫓台

主郭

同櫓台

主郭


竪堀?