日本の城跡

中村城

北側の二重堀・土塁
訪問日 H24年 4月
ポイント 城は鬼怒川と小河川の間の台地上に築かれ、東西414m、南北486mの方形で、周囲に幅8m、深さ5〜9mの空堀が巡っている。北と南側の土塁は二重になっている。奥州伊達氏の祖といわれる藤原朝宗が築城。伊達氏の祖との説には異説があるが、大河ドラマの”樅の木は残った”の樅の木が城跡にある遍照寺境内にあったり、近くの八幡宮で毎年催される凱旋流鏑馬は江戸期に仙台藩主伊達吉村が参勤交代の折に神馬を奉納したのが起源といわれる等仙台の伊達氏との縁が深い。
印象 道が狭く、目標物が少なかった為、辿り着くのに苦戦した。遍照寺の境内になっており、堂々たる土塁・堀が残り、大きな方形の館。北と南に二重堀も残り、期待以上だった。大規模な中世豪族の館。近くに伊達家と関係の深い中村八幡宮があり、興味深い。
地図
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略史  平安末期に摂関家領中村荘を管掌した藤原朝宗が築城した。源頼朝の奥州征伐の軍功で、陸奥の伊達・信夫郡を与えられ、朝宗は同地に赴き伊達氏と称し、本領の中村を次男の朝定に継がせた。南北朝期に朝宗の子孫、中村経長は北畠顕家の軍に従い各地を転戦した。その後伊達朝行と共に伊佐城に籠ったが、高師冬に攻め落とされた為、宇都宮氏を頼って家臣となり、中村荘は宇都宮領となった。戦国期、当城は下館城主水谷正村に攻められ、城主中村玄角は討死し、子の時長は城を焼いて米沢に走り、伊達政村の家臣となった。その後宇都宮尚綱は中村城の復興を図るべく、武田信隆に久下田城の水谷政村を攻めさせたが失敗、中村の地は蟠龍の領地となった。城は廃城に。
遍照寺境内 城碑 南側左の堀
同右の堀
西側の堀
同反対側から 北側の二重堀・土塁 西北角の櫓台・中村大明神 北側二重堀・土塁
東側堀・土塁
北側二重堀反対側から
北東角櫓台
東側から見る
中村八幡宮
同参道