日本の城跡

鷲城

内城堀底道
訪問日 H24年 4月
ポイント 城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害。東西400m、南北600mで中城と外城の二つの郭からなり、広大な平城。南北朝期の城が良く残っている貴重な遺構。鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座している。
印象 少し入りにくいがなんとか見つける。祇園城に行った際、是非支城の鷲城に行きたかったもの。中城にある鷲神社に車を止める。ここが主郭と思われるが、自然地形を利用したようで特段の防禦施設はなかった。外城は住宅地等に埋没していたが、内城とを区画する堀が見事。深く、切岸の土塁、一部の二重堀には圧倒された。外堀役の思川が城を守る。
地図
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略史  南北朝末期、小山義政は3次にわたって関東公方足利氏満と戦い、この「小山義政の乱」の拠点として鷲城は整備増強された。この乱は小山義政が北畠親房に応じて南朝方として勢力を伸ばしていた為、氏満が小山氏を押さえるべく画策したもの。氏満の指令を受けた関八州の守護大名が小山に攻めよせ、義政は最初は神鳥谷の館で、二回目は鷲城に5ヶ月も大軍を相手に立て篭もり戦ったが敗れ、降伏して祇園城に移り鷲城は焼かれた。翌年、義政は祇園城を焼いて櫃沢城に移り、三度目の乱を起すもでも衆寡敵せず敗れ自刃した。嫡子の若犬丸は逃れ、常陸の小田氏の支援を受けて難台山城に拠ったが敗れ、会津の地で自害し小山氏は滅亡した。小山氏の名跡は一族の結城泰朝が継承し、祇園城の支城として存続したが、豊臣秀吉の小田原征討で北条氏と共に小山氏が滅び、当城も廃城となった。
城碑
大手虎口
大手道 鷲神社(主郭)
思川 中城・土塁
櫓台跡
土塁
横矢土塁
虎口
土塁
二重土塁・堀底道
思川総合公園、右が鷲城
二重土塁の外側
思川の搦め手虎口
同虎口の土塁
同土塁切岸
同堀底道
外城への道を上から見る、この辺に橋が架かる
二重土塁の内側切岸土塁
外城へ
二重土塁
同土塁
二重土塁・右側外城
外城堀跡
同土塁