日本の城跡
鷲城
略史 南北朝末期、小山義政は3次にわたって関東公方足利氏満と戦い、この「小山義政の乱」の拠点として鷲城は整備増強された。この乱は小山義政が北畠親房に応じて南朝方として勢力を伸ばしていた為、氏満が小山氏を押さえるべく画策したもの。氏満の指令を受けた関八州の守護大名が小山に攻めよせ、義政は最初は神鳥谷の館で、二回目は鷲城に5ヶ月も大軍を相手に立て篭もり戦ったが敗れ、降伏して祇園城に移り鷲城は焼かれた。翌年、義政は祇園城を焼いて櫃沢城に移り、三度目の乱を起すもでも衆寡敵せず敗れ自刃した。嫡子の若犬丸は逃れ、常陸の小田氏の支援を受けて難台山城に拠ったが敗れ、会津の地で自害し小山氏は滅亡した。小山氏の名跡は一族の結城泰朝が継承し、祇園城の支城として存続したが、豊臣秀吉の小田原征討で北条氏と共に小山氏が滅び、当城も廃城となった。 |