日本の城跡

福与城(別称:箕輪城・鎌倉城)


南城から本城方面
 訪問日  H26年 5月
 ポイント  天竜川左岸の河岸段丘先端に築城された平山城。城の東側は鎌倉沢が切込んで断崖をなし、西と南側は天竜川を望む深い谷になっており、攻め口となる丘陵続きの南東端を堀切で区切って独立させた「後ろ堅固」の城である。縄張りは堀で分断された北城・中城・南城の3ブロックからなる。南城は屋敷地、一番高所にある中城が本城として一郭・二郭からなり、一郭が主郭である。本城と北城の間には幅10mにおよぶ横堀が掘られ、北城の独立性が高い。戦国時代の伊那の小豪族の居館と軍事的要塞をかねあわせた平山城として貴重。
 印象  大きな城郭で、南城(屋敷部分)は森林と畑地になっている。南城から空堀を渡り本城一郭へ、一郭は結構広く、土塁もある。一郭の北に深く広い空堀の先に、これも広い北郭がある。北郭を見た後に深い堀底道を歩いて本城二郭へ行ったが、いずれも雑草が生茂りいまいち形が分かりずらかった。この城も天竜川沿いにある他の城と同じく、三方が崖、陸続きの南東を深い堀切で独立させていた。外部から見ると結構要害だ。
 地図  
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略史  福与城は鎌倉時代に諏訪一族の藤沢氏が築城。戦国時代、武田信玄が諏訪侵攻を開始し、高遠の高遠頼継らと結んで諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼした。その後諏訪の領有をめぐり武田氏と高遠氏が対立、この時福与城主の藤沢頼親は高遠氏に与して武田氏に対抗した。しかし武田氏が高遠頼継を破り、武田方の駒井高白斎が福与城を包囲した為、頼親は武田氏に降伏した。しかし2年後、頼親は高遠氏と結んで武田氏に叛旗を翻した為、武田氏は福与城を攻撃、この時は決着できず撤退した。翌年、再び武田氏は藤沢・高遠氏攻めの軍を起こし、高遠氏は居城の高遠城を捨てて逃亡、のち降伏後切腹した。武田氏は続いて福与城を攻め、藤沢氏は上伊那衆の結集や林城の小笠原長時の援軍を得て抵抗したが、善戦及ばず降伏し開城、武田氏は福与城を焼き払った。藤沢氏はその後、再度小笠原氏と結んで武田氏を離反したが、結局降伏し臣従した。しかしその後も藤沢氏は上洛し、三好長慶に仕えたが、長慶死後に信濃の旧領に戻り、田中城を築城、居城とした。武田氏が滅亡すると藤沢氏は福与城を奪還したが、織田信長の死去に伴う信濃領争奪戦で、北条氏直に与したため徳川軍の保科正直に攻められ、終に藤沢頼親は田中城において、子の頼広と共に自刃し滅亡した。

遠望

南城から本城方面

本城一郭虎口、その手前に土橋・堀切

本城一郭上段櫓台と手前同下段

同一郭

同から南城方面

同から北城方面(手前が大堀切)

同の大堀切

北城

北城から大堀切越しの本城一郭切岸

北城と本城二郭間の堀

本城一郭切岸と二郭間の横堀

同反対側から

本城二郭

同二郭

同二郭下段

同二郭上段(姫屋敷)

南城と本城一郭間の堀切

同堀切、鎌倉沢に下る

同堀切の反対側

本城一郭下段

南城

南城屋敷方面

南城・乳母屋敷

同を宗仙屋敷から

同と権治郭土居

宗仙屋敷・権治郭土居

宗仙屋敷・権治郭


同向原

南城赤穂屋敷・搦め手方面

南東部搦め手の堀切跡

同付近からの遠望

南城と本城間の西斜面に落ちる堀切

北城切岸