日本の城跡

松本城(別称:深志城・鳥城)

大天守・乾小天守・辰巳小天守
訪問日 H4年 3月他、H27年 5月
ポイント 国宝の天守。複合連結式で乾小天守を二重渡り櫓で連結し、辰巳小天守を複合、更に月見櫓を付属させている。月見櫓は岡山城とともに特異な造りである。五重の天守としては日本最古のもの、実戦本位で下見板張りの中間と隅に石落しをつけ、寒地性気候の為望楼に外壁をつけたが窓は殆んど造らず、射撃用の狭間を多くつけている。
印象 ごつい印象を受ける城だが何度行っても感動する城だ。石垣、水堀に浮かぶ天守の姿がすばらしい。更に非戦闘用の月見櫓と野面積みの石垣の上にたつ、やや無骨とも見える天守のアンバランスが面白い。雪の残る天守も良い。天守から見る飛騨山脈、松本平等の景色も印象深かった。二の丸太鼓門が復元したとのことで訪問。
地図
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略史  室町時代、信濃守護小笠原氏の一族島立右近が当地に館を築き、深志城と称した。戦国時代に入り、武田信玄が小笠原長時を追い出し深志城を拡張して北信濃進出拠点とした。その後武田氏の滅亡で混乱の内、越後の上杉景勝が侵攻して小笠原長時の弟貞種を入城させたが、長時の嫡男貞慶が徳川家康の支援を受け攻略、松本城と改称した。豊臣秀吉の小田原征討で家康は関東へ移封され、小笠原氏も古河に。そして家康を見限り秀吉の家臣となった石川数正が入封し、現在の松本城の原形を造った。しかし数正は3年後に病没、子の康長は家康の大阪城攻めの前年に大久保長安事件に連座したとして九州へ流罪となった。小笠原秀政が故地松本に入封したが、大阪の陣で戦死、忠真の時明石に転封となった。その後戸田、松平、堀田、水野氏と譜代、家門の要人が入転封した。水野忠直の時過酷な年貢取立てで強訴”加助騒動”が発生、忠恒の時江戸城での刃傷沙汰で断絶、戸田氏が再封し明治まで在封した。その間朱子学を基本理念として産業振興や藩校創設し文武の向上を図った。幕末、佐幕藩として和宮下向等活動したが、戊辰時は勤王方として北越奥羽を転戦した。
大天守と月見櫓
大天守と乾小天守
  天守
黒門桝形
天守
黒門櫓
黒門と天守
天守
二の丸と本丸間の水堀
二の丸
二の丸隅櫓台
二の丸
二の丸水堀
二の丸へ
同隅櫓・水堀
天守
本丸と二の丸間の水堀
松本神社
40年前の松本城
復元二の丸太鼓門
二の丸櫓台