日本の城跡

松代城(別称:海津城・待城)

本丸門
訪問日 H4年 3月、H27年 5月
ポイント 松代は犀川と千曲川に挟まれた穀倉地帯を扼する要の地であり、三方を山に囲まれ、一方に千曲川が流れる天険の地である。信濃における北への前進基地であり、大軍を養う兵站基地の役割を果たした。信玄の城の中で、もともと城がなかったのは当城だけで、本丸の大きさ、総構え等甲州流築城術を代表している。築城当時は千曲川が外堀として流れていたが、幕藩時代に水害を防ぐ為現在の川筋に変えている。
印象 松代城内にある長野電鉄の松代駅前に城址公園がある。まだ雪が残っていたせいか、第一印象は寒々しく、これが有名松代城か・・。平城で川を利用した水堀と石垣を幾重にも廻らしていたらしい。石垣に吹き付けられた雪が厳しい環境を思わせる。本丸に石垣・天守台が残るが二の丸・三の丸等が壊され野球場や住宅地になっているのは残念。現在一部復元中とのこと。是非とも再訪したい。藩校の文武学校や真田藩邸、武家長屋門が残り興味深かった。JR信越本線からはずれた為か城下町の面影が良く残っている。H27年に念願の再訪。予想以上に復元整備されてびっくり。逆に整備され過ぎて、古城の風格はうすれた。しかし堀・石垣・門が復元され、ほぼ全容が分かってありがたい。水堀も広く、縄張りも駆使された堅城だ。
地図
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略史  小笠原・村上ら信濃の強豪を打ち破った武田信玄は善光寺平を手中にしようとしたが、奥信濃の諸将は上杉謙信に助けを求めた為、ここ川中島で両雄の激突が繰り返された。決着をつけるべく信玄は、馬場、山本に命じ主戦場近くの海津に軍事基地を築城し高坂弾正を入城させた。これを見た謙信は信玄と対決すべく川中島に進出、日本戦史を飾る第四回目の合戦が行われた。最終的な決着はつかなかったが海津城は立派に重責を果たし守った。しかし武田氏は滅亡し、織田信長の家臣森長可が入城したが、信長の死亡により城を捨て去った。その後上杉景勝が領有したが会津に転封、関ヶ原後、森氏次いで松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝と親藩譜代の大物が入転封後真田信之が入封し明治まで在藩した。真田氏は井伊氏はじめ譜代から養子を迎えたことから準譜代と見なされ、幸貫の時老中に昇進、水野忠邦と天保の改革を推進した。幕末、佐久間象山を抜擢し海防に注力、ペリー来航時は横浜の警備にあたった。戊辰時逸早く勤王倒幕に踏み切り新政府軍に加わり、北越奥羽に転戦した。
本丸方向
本丸石垣
本丸堀跡・石垣
石垣
本丸石垣
本丸土塁
天守台
同石垣
以下天守石垣
松代駅から見る
長野電鉄松代駅
城から
以下藩校文武学校
矢沢家長屋門
以下真田藩邸

以下27年5月撮影。外堀(三日月堀)

三の丸跡

二の丸南御門、手前が馬出跡

二の丸から南御門

二の丸

二の丸と石場門跡

二の丸土塁

本丸南堀と太鼓門

本丸東堀と東不明門跡

本丸南堀

本丸南西隅石垣と太鼓門方面

太鼓門

太鼓門

太鼓門

桝形
桝形

内部よりの太鼓門

本丸東南隅石垣

本丸東不明門跡

本丸東石垣

本丸北不明門

本丸着た石垣と北西隅天守台

北西隅天守台

本丸西石垣

同の相坂

本丸

西側二の丸と三の丸を仕切る土塁

天守台より三の丸と百阮x跡

同より三の丸と妻女山方向

同より北不明門

同より北不明門と三の丸・井戸

北不明門

同の外桝形

同の外桝形

外桝形

三の丸と本丸遠望

三の丸

北不明門と三の丸・井戸

三の丸と二の丸東側方面

三の丸と二の丸東側の水堀

本丸東堀と東不明門跡

本丸北東隅石垣

三の丸北西を見る

三の丸外側の新堀

三の丸虎口と百阮x跡

天守台方面



二の丸と三の丸を仕切る土塁

同土塁の虎口

本丸西堀・天守台

南西隅石垣と西堀

藩校文武学校

真田家屋敷

白井家屋敷
武家屋敷