日本の城跡

大島城(別称:台城)


二の郭土塁
 訪問日  H26年 5月
 ポイント  武田氏の伊那谷南部の拠点であり、遠江・三河・美濃侵攻の兵站基地でもある。城は信玄後期から勝頼期の平山城の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造。甲州流築城術の特徴である丸馬出、三日月堀、枡形虎口などの遺構が見られる。天竜川を背に城の側面・背面は台地の断崖になっており、前面の空堀がこの断崖へと続いている。また城正面の三日月堀は二重となり特徴的である。
 印象  大変な登城であった。訪問途中から小雨が降りだしたが、城に到着し馬出郭・堀・三の郭を見て回った頃、急に暗くなったと思ったら大雨が降り出し、雷が鳴りだした。これが半端な雷でなく、数発近所に落ちたようだ。これには本当に肝を冷やした。30分ほどしてようやく小降りになり廻りだす。二の郭・主郭へ、なにしろ深く・広い空堀に圧倒される。天竜川への崖端城で、両側はきびしい崖に守られ、陸続きの方は郭と大きく深い堀で固めていた。公園として程々整備され見やすく、甲州流築城術の遺構も良く残り、雷と共に思い出深い城となった。
 地図  
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略史  平安末期、船山城主片桐為行の第八子・宗綱が分地し、大島氏を名乗った。大島氏は代々この地を統治し、大島城始め、北の城・沼の城を築いた。戦国末期、伊那一帯を制圧した武田信玄は飯田城主秋山信友に命じて、高遠城と共に上洛の拠点とすべく城を大改修した。しかし信玄の途上で死去以降は武田氏の勢力は後退し、終に織田軍の大軍が伊那に侵攻し飯田城が落城した。武田方は織田軍に対抗すべく伊那の勢力を大島城に集結させたが、国人衆が動揺して戦意を喪失、守将の武田信廉は戦うことなく甲斐に退却し大島城は自落した。

天竜川越の遠望

北側駐車場(堀跡?)越の遠望

丸馬出

同の二重土塁

(7)の馬出郭(伏兵郭)堀


(7)の馬出郭



馬出郭と二の郭間の二重堀

二の郭の二重堀

三の郭堀

三の郭


(2)の馬出郭と三の郭間の堀

三の郭の丸馬出枡形虎口

三の郭土塁

三の郭

同(弓道場)


三の郭土塁

三の郭堀


三の郭東側急崖

(2)馬出郭と三の郭間の土橋

三の郭堀


二の郭二重堀・土塁

二の郭


同西側急崖

二の郭切岸・堀

主郭堀切


主郭




同の池跡

同の櫓台

同の急崖

同からの天竜川

主郭下の祠

主郭から見た二の郭・切岸

二の郭

二の郭からの主郭・切岸

主郭切岸

そこにあったサルのトイレ?

二の郭急崖

主郭下の土塁・堀

搦め手方面(枡形)

井戸