日本の城跡

高遠城(別称:兜山城・甲山城)

本丸虎口の問屋の門と桜雲橋
訪問日 S63年 8月
ポイント 三峰川と藤沢川が直角に合流する河岸の丘陵上にあり、古くから諏訪、遠州に通じる交通の要衝である。武田流の築城仕法が残り、本丸を中心に半円形に二の丸、三の丸が造られ、出丸として勘助曲輪、笹曲輪等を土塁、深い空堀で固めている。江戸城大奥の年寄絵島が芝居見物からの遅参を理由に当地に流刑となり、幽閉された花畑の御囲屋敷が復元されている。
印象 弘前同様、城跡に咲く桜の名所。石垣は少ないが、本丸・二の丸・三の丸・曲輪を深い堀が廻っており、曲線の多い城だ。戦国の城らしい素朴さを感じる。JR飯田線の駅から、かなり入った山間のせいか雰囲気が残った城下町。
地図
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略史  高遠城の創築ははっきりしないが、古代より交通の要衝で早くから砦等があったとみられる。武田信玄は高遠を本拠としていた諏訪氏と同族の高遠頼継が、褒美の件から信玄に叛旗を翻した為攻め取った。そして伊那谷支配の拠点として新城を築き秋山信友を入城させた。縄張りは山本勘助と言われる。その後武田勝頼、武田信廉が城主となったが、信玄死後、跡を継いだ勝頼は長篠で織田・徳川軍に大敗すると異母弟の仁科盛信に守らせた。盛信は押し寄せる織田信忠軍に孤軍奮闘したがおよばず落城。信長が倒れると混乱の中、一時保科氏が入城したが豊臣政権では毛利、京極氏の代官が在城した。徳川時代になると保科正光が復帰、将軍秀忠の庶子幸松が養子相続し正之となる。転封後、鳥居氏、幕領を経て内藤氏が明治まで在封した。戊辰時新政府軍に加わり越後へ転戦した。
案内
虎口
二の丸
桜雲橋・空堀
空堀
本丸
  太鼓櫓
土橋
勘助曲輪・空堀
空堀
藩校進徳館
絵島囲み屋敷
城より
三輪川
街中