日本の城跡
戸石城(別称:砥石城・伊勢崎城)
略史 築城の明確な資料はないが、中世に真田氏が上田地方を押える為の外城として築城した言われる。海野平合戦で海野・真田氏は武田・村上・諏訪連合軍に敗れ、海野氏は上野国に逃れ、真田氏は武田氏に身を寄せた。その後村上氏が小県、佐久地方に備えるために戸石城を大改築した。天文19年、武田氏は晴信の時代になり、佐久から北信濃への進出を狙い、小笠原氏を破り当城の村上軍を攻撃したが、落城できず撤退途中に追撃され大敗北を喫した。いわゆる戸石崩れである。しかし翌年、配下となった真田幸隆に攻略を命じ、調略によって城内に内通者を出し、わずか一日で陥落させた。この功により真田氏は晴信から真田の旧領を宛てがわれ、武田氏の有力家臣としての地位を確立した。戸石城は真田氏の拠点となり、上田城を築城した後もその属城として重きをなした。慶長五年、関ヶ原の役では真田昌幸は、戸石城を徳川方に属した真田信之に占拠させ軍功を挙げさせるとともに、徳川秀忠に上田城攻撃をさそい、徳川軍に大損害を与えている。戦後、真田昌幸の所領は戸石城も含め、信之に与えられたが、その後の信之の松代への転封により廃城となった。 |