日本の城跡

上田城(別称:伊勢崎城・尼ヶ淵城・真田城)

本丸西櫓
訪問日 H2年 8月、H27年 5月
ポイント 千曲川の河岸段丘の上に築城し、尼ヶ淵の断崖に接する。天守閣は無かったようだが、本丸・二の丸・三の丸からなり、規模・仕法が皆同じ二重二階の七棟の櫓を持っていた。決して要害堅固の城ではない上田城が、二度の徳川の大軍の攻撃にもびくともしなかったのは戦略と用兵の妙か。
印象 天然の険峻の地でない平城が、徳川の大軍を翻弄できたのは? 戦略と用兵、縄張り、そしてなんと言っても真田兵の強さであろう。真田神社の脇に猿飛佐助が出入りしたという井戸がありおもしろい。上田は古い城下町の面影と、又北国街道の宿駅としての姿を残していた。本丸櫓門が復元されたので、再訪。今回は二の丸と本丸を中心に廻った。改めて広く、深い堀、そして川を利用した堅城だ。
地図
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略史  小県郡の土豪小泉氏が出城を築いた。戦国時代、武田、上杉、北条、徳川の有力大名に挟まれた小豪族の真田氏は苦労したが、幸隆は武田氏に仕え軍功をあげ戸石城を与えられた。しかし武田氏の滅亡、織田信長の死去により信州も大混乱、幸隆の子昌幸は家康に服属して本領安堵、新恩を受け、上田築城を開始した。その後家康から北条氏の佐久と真田氏の沼田の領地交換要求を拒否したことから戦争となったが、巧みな戦略と上杉氏の支援により大勝を得ている。そして豊臣秀吉の口利きで再度家康に臣従し、本多忠勝の娘を家康の養女として嫡男信幸の妻に向かえた。一方、次男幸村は石田三成の仲介で大谷吉継の娘をもらった。関ヶ原の役で徳川秀忠軍を釘づけにした昌幸父子は信幸の嘆願で九度山へ追放、上田城は破壊されたが大阪の陣後信幸に与えられた。その後松代に転封、仙石忠政が入封し真田氏創業の後を受けて、城改築、新田開発、産業振興を実施した。次に松平忠周が入封し老中など幕府要職を歴任する一方、知行制を廃し、貢租体系を米納に変える等改革したが自然災害等で財政は窮乏した。宝暦には農民一揆”上田縞崩格子”騒動が起きている。幕末、忠固は老中として井伊直弼と協力開国に尽力した。戊辰時忠礼は当初幕府に忠誠を誓ったが、新政府軍が上田に到着すると恭順し北越・奥羽に転戦した。
案内
二の丸虎口石垣
以下北櫓
大手門真田石
真田井戸
   南櫓
  同
資料館
遠望
西櫓
  西櫓
水堀
土塁
海野宿

復元本丸大手櫓門と南北櫓

本丸内堀で尼ヶ淵に落ちる

本丸東堀

本丸

本丸土塁

本丸西南隅櫓跡と西櫓

本丸北西隅櫓跡

本丸北土塁

本丸北東隅櫓跡

本丸東土塁

本丸北堀と二の丸方面

本丸北堀

本丸西堀と小泉曲輪方面

本丸北西隅堀

本丸西虎口と西櫓

本丸

真田神社

北櫓

櫓門と南櫓・井戸

二の丸

二の丸

二の丸より本丸北東隅櫓跡

二の丸より本丸北東隅の入隅

二の丸より本丸北堀

二の丸石垣・鐘楼

二の丸東虎口

二の丸東虎口石垣

鉄道が通っていた二の丸東堀

同の二の丸東堀

二の丸東虎口