日本の城跡

白石城(別称:益岡城)

本丸復元三階櫓
訪問日 H5年 9月                   H7年 3月  
ポイント 元和の一国一城令後も例外として城と認められ仙台藩の南の国境を守った。戊辰時結ばれ新政府側に対する為仙台、米沢藩主の首唱で奥羽25藩が、のち越後が加わり仙台藩を盟主として奥羽越列藩同盟が結ばれ、白石城に奥羽越公議所が設けられた。
印象 最初は天守周辺を改修中であった。土塁、水堀、重臣の屋敷跡残っているが高校の敷地に一部取られていた。二回目は木造の復興天守、石垣も修築されていた。昔の姿に極力近づけており雰囲気が出てきた。嬉しいね。
地図
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略史  後三年の役後、刈田経元が居城を築き、のち伊達政宗に属す白石、屋代氏が拠った。秀吉は政宗から会津五郡と伊達、置賜、苅田の三郡を取り上げ蒲生氏郷に与えた。蒲生氏は近世城郭として白石城を築城、会津の支城とした。しかし子秀行の時家中の内紛の咎で宇都宮に転封、代って上杉氏の領地になり甘糟氏が入城した。秀吉死後、家康は石田三成に味方した上杉討伐を政宗に命じ白石城は落城、その後重臣片倉景網を入城させた。白石城は仙台藩の南の国境を守る重要な城となり、又一国一城令にもかかわらず仙台藩に限って白石城のみ例外的に”城”の扱いをうけ立藩した。白石城は戊辰時の奥羽越同盟公議所、戦後の両羽三陸磐城按察使設置等重要な役割を果たした。戊辰後盛岡藩は朝敵の責任から領地収公され、白石に移封されたが70万両献金で盛岡に復帰した。この間白石藩は宗家と共に降伏、開城したが南部藩の移封により白石家中の者は家屋敷を失い禄をはなれ多くの者が北海道に移住し苦難の生活を強いられた。
襖絵
神明社・本丸
  本丸
  
虎口
二の丸方面
武家屋敷群
復元三階櫓
大手一の門
大手二の門
本丸石垣・井戸
遠望
  
  
二の丸大手二の門
厩口門・土塁
本丸
土塁
桝形虎口