日本の城跡
白石城(別称:益岡城)
略史 後三年の役後、刈田経元が居城を築き、のち伊達政宗に属す白石、屋代氏が拠った。秀吉は政宗から会津五郡と伊達、置賜、苅田の三郡を取り上げ蒲生氏郷に与えた。蒲生氏は近世城郭として白石城を築城、会津の支城とした。しかし子秀行の時家中の内紛の咎で宇都宮に転封、代って上杉氏の領地になり甘糟氏が入城した。秀吉死後、家康は石田三成に味方した上杉討伐を政宗に命じ白石城は落城、その後重臣片倉景網を入城させた。白石城は仙台藩の南の国境を守る重要な城となり、又一国一城令にもかかわらず仙台藩に限って白石城のみ例外的に”城”の扱いをうけ立藩した。白石城は戊辰時の奥羽越同盟公議所、戦後の両羽三陸磐城按察使設置等重要な役割を果たした。戊辰後盛岡藩は朝敵の責任から領地収公され、白石に移封されたが70万両献金で盛岡に復帰した。この間白石藩は宗家と共に降伏、開城したが南部藩の移封により白石家中の者は家屋敷を失い禄をはなれ多くの者が北海道に移住し苦難の生活を強いられた。 |