日本の城跡

会津新宮城

城碑
訪問日 H24年 7月
ポイント 新宮城は会津盆地の北西隅、阿賀川の支流濁川右岸の扇状地末端にある複郭式の方形館で、二重の堀と土塁に囲まれた典型的中世豪族居館。主郭は内堀に囲まれ、東・南側に二の郭が、北・西側に三の郭に配置され、城域は外堀で囲まれていた。
印象 喜多方から陣ヶ峯城に向かう途中に偶然出会う。以前に発掘調査されたらしく、結構規模の大きな館跡だ。方形主郭の周囲を広い堀と土塁で固めており、更にその外側に二の郭・三の郭を置いている。室町期に蘆名一族の間で、壮絶な抗争が勃発した地であるが、今は田畑の中にひっそりと残っていた。
地図
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略史  相模国三浦氏の一族、佐原義連は奥州合戦の軍功で軍功を挙げ、源頼朝から会津に所領を与えられた。鎌倉幕府の内紛、宝治合戦で三浦氏の一族ながら北条時頼に与して家名を残した盛連は、子供達に猪苗代・北田・藤倉・黒川(蘆名宗家)・加納、そして六男時連に新宮の所領を分け与え、それぞれその地名を称し館を構えた。しかし室町初期頃には宗家の会津一円支配が強まり、庶家の反発もあって、一族間での争いが激化した。この抗争の中で、新宮氏は加納氏を滅ぼし、北田氏と同盟を結んで宗家の蘆名氏に対抗した。こうして会津の各地で新宮氏と蘆名氏間で争いが繰り広げられたが、ついに新宮城は蘆名氏に攻め落とされ新宮氏は高館城に立て篭もりゲリラ戦を展開した。しかし数年後、蘆名氏は新宮氏の重要拠点小布瀬城を攻略、新宮氏を越後に追い落とした。その後新宮氏は失地回復すべく、蘆名氏配下の越後の津川城を攻めて会津侵攻を開始したが、逆に反撃されて新宮一族は討死して滅亡した。
主郭南側内堀 同東側内堀 主郭
主郭西側の広い土塁 主郭南東隅の櫓台
同南西隅の櫓台
同北側内堀 同西側内堀
主郭北側の三の郭
同北東隅の櫓台
同南側二の郭・土塁
同東側二の郭
南側外堀