日本の城跡

会津若松城(別称:鶴ヶ城・黒川城)

復元天守・走り長屋・鉄門
訪問日 H6年 7月
ポイント 蒲生氏郷が七重の天守を持ち、二重の石垣で築かれた追手門、皆殺し丸と呼ばれた出丸等甲州流の縄張りの大城郭を築城。京都守護職時代の恨みをかった会津藩は朝敵の汚名を浴び、新政府軍の仮借ない攻撃を受けたが老人、子供、女一丸となって抵抗し籠城戦を一ヶ月持ちこたえた。白旗を降服の印として初めて掲げたと言われる。
印象 雪深い会津盆地と徳川に対する保科正之の忠誠心が剛直なまでの会津武士道を生んだのだろう。見事な縄張りだ。広く深い堀、高石垣、出丸、出丸から帯郭に入る椿坂等見つくせない遺構がある。重厚な、ずっしりとした城だ。飯盛山他も廻る。
地図
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略史  源頼朝の家臣三浦一族の佐原氏の後裔、蘆名氏が黒川(会津)に築城。戦国時代、伊達政宗が摺上原で蘆名義広を破り入城したが、秀吉の奥州仕置で蒲生氏郷が領有して大改修し名も鶴ヶ城と改称した。その後上杉氏が関ヶ原の咎で米沢に移され、蒲生、加藤氏改易後家光の異母弟、保科正之が入封した。正之は家臣の俸禄制への移行、市場の再興等を決定し藩政を確立、家光死後家綱の補佐役になった。正容の時徳川一門に列した。その後農村の荒廃や凶作、蝦夷地警備等で財政の困窮は続いたが容敬は産業振興、市場の統制、人材登用等を積極的に実施し大飢饉も乗り切った。幕末、容保は将軍の信任も厚く攘夷騒動で過熱する京都守護職に就任、孝明天皇からの信任も得たがついには朝敵とされ鳥羽伏見の戦いに敗北、戊辰時も新政府軍の標的とされ激しい戦闘の上降服した。嫡男容大に家名相続が許され陸奥斗南藩を立藩した。
廊下橋門
蒲生時代の表門
御三階櫓台
茶壷櫓台
月見櫓台
廊下橋
 
同より水堀
本丸鉄門
 廊下橋門
   
水堀
水堀
 
北出丸追手門
水堀
太鼓門
石垣
 
本丸・月見櫓・茶壷櫓方面
   
 天守入口
  
 茶壷櫓・廊下橋・水堀
 
武者走り・塀土台
   
本丸
梅坂鐘楼堂
 
  
太鼓門武者走り
北出丸
戸ノ口洞穴
御薬園
 さざえ堂
  
飯盛山