日本の城跡

阿津賀志山防塁

阿津賀志山・防塁碑
訪問日 H6年 7月
ポイント ”伊達の大木戸”と称する平泉の防衛線。頂上から信達平野を一望できる。頼朝の支配が及ばない奥羽の地を泰衡を追討して支配し鎌倉幕府の地位を全国的に確立する事にあり、その決戦場となった。 
印象 阿津賀志山から一直線状に平地に下り河岸段丘上に沿って帯状に連続した土塁と空堀が残っている。壮大な陣地と単陣の為鎌倉軍の猛攻を支え切れなかったかな。
地図
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略史  源頼朝は奥州藤原氏追討の為、大軍を率いて奥羽に進撃した。藤原泰衡は異母兄の西木戸国衡に二万の兵をつけて阿津賀志山を守らせた。国衡は山腹から阿武隈河畔まで二重の堀を穿ち防備を固めた。鎌倉方の先鋒、畠山重忠は人夫を指揮して堀を埋め防塁を突破したが平泉方は山麓の大木戸に退き戦った。しかし鎌倉方の一部が阿津賀志山を迂回して背後から攻撃した為平泉方は総崩れとなった。国衡は敗走の途中で討ち取られ、この合戦以降平泉方は抵抗らしい抵抗もせず敗走し奥州藤原氏を滅亡させた。
阿津賀志山
線刻画像碑
  同
土塁・空堀