日本の城跡

久川城

竪土塁・竪堀
訪問日 24年 7月
ポイント 城は伊南川左岸に南北に伸びる丘陵上に位置し、伊南川と滝倉川に挟まれた要害である。縄張りは滝倉川に面した西側稜線を城塁として削り残し、東側斜面を削平し、6郭を北から配置した連郭式城郭である。各郭間は竪土塁と竪堀で仕切られている。主郭は堀と土塁で固められた方形郭で、南西隅に建物跡と思われる基壇が残っている。大手の南東麓には馬出しが、南郭下の虎口は桝形構造となっている。更に導線は南郭・三郭・二郭・主郭へと繋がっているが、この間導線土塁と切岸で区画された堀底状の帯郭となっており、各郭から横矢が掛る仕組みとなっている。また搦め手も麓に馬出しと北虎口は桝形になっているなど、久川城は全体的に規模も大きく、技術的にも高い城である。
印象 久川城は福島でも山奥の方にあり、なかなか行けない所だが思いきる。塩原から山の中を入っていく、やっと伊南川沿いの久川町に着く。町役場と幼稚園になっている、東館・西館をまず見る、土塁が残っていた。川を渡り、案内に従って城へ、馬出しに車を停める。ところがスズメハチの大群の襲撃を受け、暫く車の中に退避す。その後つづら折りの坂道を登り城内へ。桝形虎口を入り、まずは削り残された城塁を登る。途中堀切や竪堀を見ながら一番奥の北出郭へ、ここにも搦め手口の馬出しから上がった桝形虎口が残っていた。次にだだぴっろく平坦な北郭を通ると、竪土塁と空堀に囲まれた主郭がありびっくり興奮する。かなりしっかりした郭だ。次に二郭・三郭・南郭を見たが、ここの特色は後の高土塁と竪土塁と堀で固めているところだ。帰りに雑草とりをするらしい夫婦に出会ったが、全体的に整備が良く、夏でも良くわかった。感謝!久川城の城門が善導寺山門に移築されている。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  ここ伊南郡は源頼朝による奥州合戦の軍功により、下野国住人の河原田盛光に与えられ、以後河原田氏が駒寄城を拠点に勢力を伸ばしていった。戦国期に蘆名盛氏に攻められ撃退したものの、後ろ楯を持たない河原田氏は蘆名氏に臣従した。蘆名氏は会津侵攻を繰り返す伊達政宗と、摺上原の戦いで敗れ滅亡した。政宗は会津制圧に成功して黒川城(現・若松城)に入城し、河原田氏に臣従を求めたが、当主盛次は拒否した。この為政宗は家臣の柴田氏や降伏した鴫山城主長沼氏らに侵攻させたが、河原田氏は新たに築城した久川城に立て篭もって抵抗し、伊達勢を撃退した。しかし豊臣秀吉の小田原征討に参陣しなかった為、その後の奥州仕置で領地を没収された。会津は蒲生氏、上杉氏、再度蒲生氏が入部したが、久川城は蒲生氏の時代に現在の縄張りに改築された。その後徳川時代に入り、1611年廃城となった。
大手馬出し 同空堀 つづら折りの登城坂
大手桝形虎口
南郭横堀・土塁
南郭土塁・虎口
同虎口石垣跡
南郭
南郭竪堀 同土塁 南郭
南郭竪土塁・竪堀 南郭西側城塁・櫓台 同城塁 同・堀切
西側城塁 同堀切 同堀切からの竪土塁・竪堀 西側城塁からの山並み 北出郭
同土塁・堀
同土塁
北出郭
搦め手北虎口桝形
同虎口
同虎口へのつづら折り登城道
北郭
同横堀道
帯郭
腰郭
南郭と主郭間の竪土塁・竪堀
主郭北東角土塁・空堀
主郭東側土塁・堀・土橋
主郭虎口・土橋
主郭正面東南側土塁・堀跡
主郭内・土塁
主郭
同虎口土塁
同南側櫓台
同西側城塁
同西側建物跡の基壇
城碑
主郭と二郭間の竪土塁・竪堀
二郭前の堀底道
二郭・土塁
同・土塁
二郭石垣
二郭前の折れのある土塁・堀底道
同土塁・堀底道・虎口
二郭と三郭間の竪土塁と竪堀
同土塁・堀
東側城塁
三郭竪土塁
三郭
三郭
三郭竪土塁・西側城塁
三郭と南郭間の竪土塁
南郭前の堀跡
同から東側の伊南川を見る
三郭方面を振り返る
食い違い虎口
西側麓の郭群
西側の滝倉川
搦め手口の馬出し
同つづら折りの道
遠望
善導寺山門(移築城門)
西館虎口
西館土塁
東館跡