日本の城跡
神指城(別称:岩崎城・巌館)
略史 1598年、若松城主蒲生秀行が宇都宮城に移封され、替って春日山城から上杉景勝が会津に入封した。景勝は若松城が小田山に近く,大砲が届く距離にある等守備面に不利があり、また城下の拡張に支障があるとして当時最新の平城築城を計画した。候補地は会津盆地のど真ん中の蘆名氏一族の北田城跡地に選定したが、日橋川との落差から運河や堀の水を引き込めず断念、阿賀川・湯川から水を引き込んで運河や水堀として利用可能な神指原に決定し、1600年に家老の直江兼続に命じて工事を開始させた。昼夜兼行の作業の結果、3ヶ月で本丸・二の丸、石垣・水堀等が完成した。しかし徳川家康が会津討伐の軍を起し軍勢が国境付近に迫るに及び、景勝は工事を中止し白河城の修築等の領内の防備を固めた。家康は大阪で石田三成が挙兵した為、急遽反転し関ヶ原の戦いで勝利した。戦後上杉氏は出羽米沢に移封され、神指城は未完のまま放置されたが、石垣・木材等はその後の会津領主達に若松城改修に利用された。 |