日本の城跡

神指城(別称:岩崎城・巌館)

二の丸跡から本丸遠望
訪問日 H24年 7月
ポイント 東西三方に門を開き、土塁には石垣を築き堀を廻らした。二の丸を含む全域では50万uあり、若松城の二倍の規模を持つ輪郭式城郭を計画。また越後に繋がる阿賀川の水運に目を付けている。ただ、この城の築城をはじめ、各地の城・道路・橋等の整備等が徳川家康の上杉氏討伐の名目を与えた。
印象 田んぼの真ん中に大木と土塁が残る。これが城跡かとがっかりしたが、とんでもない二の丸北東土塁の跡で、城のほんの一部であった。案内に拠ると若松城の二倍の規模で、五層の天守を持つ大城郭の計画であった。その後本丸跡へ。夏草・藪で形状がはっきりしないが、出入禁止の札を無視して、少し中の畑まで入る。土塁・堀跡・虎口等確認できた。ここも冬場に来ればもっと分かったのにと残念。調査を進めていく雰囲気なので数年後に再訪したい。興味深い城郭だった。
地図
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略史  1598年、若松城主蒲生秀行が宇都宮城に移封され、替って春日山城から上杉景勝が会津に入封した。景勝は若松城が小田山に近く,大砲が届く距離にある等守備面に不利があり、また城下の拡張に支障があるとして当時最新の平城築城を計画した。候補地は会津盆地のど真ん中の蘆名氏一族の北田城跡地に選定したが、日橋川との落差から運河や堀の水を引き込めず断念、阿賀川・湯川から水を引き込んで運河や水堀として利用可能な神指原に決定し、1600年に家老の直江兼続に命じて工事を開始させた。昼夜兼行の作業の結果、3ヶ月で本丸・二の丸、石垣・水堀等が完成した。しかし徳川家康が会津討伐の軍を起し軍勢が国境付近に迫るに及び、景勝は工事を中止し白河城の修築等の領内の防備を固めた。家康は大阪で石田三成が挙兵した為、急遽反転し関ヶ原の戦いで勝利した。戦後上杉氏は出羽米沢に移封され、神指城は未完のまま放置されたが、石垣・木材等はその後の会津領主達に若松城改修に利用された。
完成予定図 本丸南東角土塁・水堀跡
同水堀跡 本丸南側の土塁 同土塁
二の丸南側から本丸を見る 二の丸南東角から本丸方向 本丸大手口
本丸内・土塁
南側の二の丸跡 本丸東側の水堀跡 本丸北側の土塁・水堀・二の丸跡 本丸北虎口・土塁 本丸天守台
本丸内部を北側から見る 本丸天守台
本丸北虎口・土塁
同周辺の土塁・水堀跡
本丸西側土塁・水堀跡
本丸西虎口
同周辺から本丸を見る
本丸西側土塁・水堀跡
二の丸南東角に残る土塁
二の丸北東角に残る土塁 同に立つ大木 同石垣の残骸 二の丸北西角に残る土塁
二の丸南西に残る土塁