日本の城跡

向羽黒山城(別称:岩崎城・巌館)

山頂の主郭
訪問日 H24年 7月
ポイント 当城は会津盆地南縁に位置し、会津西街道を扼する400m強の山に築かれた要害である。、東側は急峻な崖とその下に阿賀川が流れ、他の三方の山全体に主郭を中心に、二の郭・三の郭をはじめ100以上の郭群で構成し、各郭を土塁・竪堀・横堀・堀切・虎口・石塁で固めている。平城である黒川城の詰の城としての役割をもっていた。
印象 巨大な山城だ。全部廻るのは一日掛るとのことで午前中を充てる。公園として整備され、車で中腹まで行けた。まず主郭の下の駐車場から上る。主郭は比高60m程、結構きついがゆっくり途中の堀・虎口等を楽しんで上る。山百合が綺麗だ。まず主郭東郭に行ったが、、狭く、物見郭であろう。その後いよいよ主郭へ、横堀・虎口を過ぎるとまずまずの規模で、なにせ眺望は抜群、会津盆地が一望できる。戊辰時、新政府軍がここから若松城に大砲を打ち込んだらしい。帰りは熊の心配があったが、搦め手方面に下りる。横堀・堀切・竪堀等で固めている。周囲にはたくさんの郭があるはずだが、藪・夏草が邪魔で分かりにくい。次に二の郭へ、結構広く、居住性は高い。主郭と二の郭は堀切で区画されていたようだが、今は道路に。その後三の郭・郭群を見て回ったが、とにかく広く大きな城で、全山郭群で構成されており、ハリネズミのような城だ。ただし、夏は駄目、秋から冬に来る城。
地図
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略史  向羽黒山城は南山の鴫山城主長沼氏を降し、会津統一を果たした蘆名盛氏が隠居城として築城。しかし嗣子の盛興が死去した為、盛氏は向羽黒山城を廃し黒川城に戻った。盛氏が死去すると蘆名氏の家督は二階堂盛隆が継いだが、盛隆は家臣に殺され、子も夭逝した為佐竹義重の子義広が蘆名氏が後継となった。義広は会津を狙う伊達政宗に摺上原の戦いで敗れ、常陸に落ち延びた為、会津蘆名氏は滅亡した。豊臣秀吉の奥州仕置で会津領は伊達氏から、蒲生氏郷・上杉景勝が入部した。この時使用されていなかった向羽黒山城を現在みられる縄張りに改修したものである。関ヶ原の役後、上杉は米沢に転封され当城は廃城となった。
主郭虎口 同登城坂 竪堀
虎口
山百合
同登城坂
虎口
同桝形虎口
主郭東郭
主郭下の横堀・土橋
主郭切岸
虎口
桝形虎口へ
桝形虎口
虎口
主郭東大手虎口
主郭
同庭園跡・物見台
同西搦め手虎口
横堀土橋
横堀
堀切
竪堀(藪で分らない?)
堀切
竪堀
西上段郭群
前方二の郭
主郭と二の郭間の堀切跡
二の郭桝形
二の郭
二の郭虎口・堀切
二の郭から阿賀川・会津市内方面
弁天郭
弁天神社
御茶屋場
同・竪堀
二の郭群への虎口
二郭西郭群
同源平池
二の郭方面
盛氏屋敷跡(藪の先)
左は三の郭
三の郭
同から羽黒神社方向
三の郭
羽黒神社・郭
羽黒郭群
阿賀川越しの遠望