日本の城跡

弘前城(別称:高岡城)

桜吹雪の天守閣
訪問日 H6年 4月、H13年 2月・H14年 7月・H22年 8月
ポイント 現存する12の天守の一つ。他に追手門はじめ五つの城門が残り、いずれも重要文化財。現存天守は天守代用として隅櫓を改造したもの。三層櫓は他に辰巳・丑寅・未申の各櫓が残っている。弘前盆地の台地、高岡に築城。土淵川、岩木川、駒越川に囲まれた天然の要地。総石垣造りの本丸を中心に、土造りの二の丸・三の丸・北の丸等が囲む構造。本丸西側は蓮池・西堀による水堀に守られ、南は長勝寺を核に寺院町が整備され、長勝寺構と称する総構えになっている。
印象 びっくり!五千本の桜の名所。天守はじめ水堀、高石垣、櫓、城門等良く残る。縄張りもすばらしく、東北によくもこのような立派な城ができたな・・・という感じ。雪化粧の弘前城も厳しい城の感じでこれも良い。桜と城郭のコンビの見事さは日本一だ。南の寺院町も長勝寺構と言うように重要な城の守り、是非共見る価値がある。何度行っても見尽くせない城。
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  津軽(大浦)為信は支配者南部高信を攻め滅ぼし、更に北畠氏を破り津軽統一の基盤を固めた。その後南部氏の反撃に耐え征服を完成、秀吉から本領安堵され大浦城、次いで堀越城を本拠に戦国大名の地位を確立した。更に関ヶ原の役で東軍に属し、家康からも安堵され小規模で守備の不安があった堀越城から弘前に新城を築城し弘前藩を立藩した。二代信牧の時、お家騒動も起きたが藩主の独裁体制を確立し、治水、金山経営に成果を挙げた。次の信政は倹約・国産の奨励、新田開発等財政改革を積極的に推進した。しかしその後の飢饉、大凶作で財政は窮乏の一途をたどった。この間藩士の帰農土着奨励も行ったが失敗。最後の承昭は幕末の動乱の中、慎重に対応し一旦は奥羽越同盟へと固まりかけたが、京の情勢を分析し勤王恭順とし、函館戦争には新政府軍として参戦した。
春・南内門
辰巳櫓
 天守
追手門
水堀
 冬・天守
  
天守
南内門
辰巳櫓
雪燈籠
夏・天守
本丸・天守
 
東門
  本丸堀
  
本丸水堀
水堀
本丸虎口
以下、寺町通り
二の門・黒門
赤門
長勝寺三門
本堂
   五百羅漢
   
宗徳寺
   武家屋敷
岩木山
   
  以下H22年8月撮影 ・天守 本丸より岩木山・手前蓮池    本丸に架かる鷹丘橋 旧東奥義塾外人教師館 旧弘前市立図書館
北門(亀甲門) 東内門 未申櫓 丑寅櫓