日本の城跡

岩谷堂城(別称:柄杓城)


中の丸の空堀
訪問日 H29年10月
ポイント 北上川支流の人首川の右岸の丘陵上に位置する巨大な平山城。この東面は岩壁が切岸高く人首川に接していて、登坂不能の天然の要害である。そして北面は堀状の地形によって、丘陵が分断されている。北端の頂部を本丸に、南側斜面に二の丸・三の丸・外郭が階段状に配置され、比較的緩斜面の西側には腰郭を設けている。大手筋は南側からの道で、三の丸・二の丸を通り本丸に繋がっているが、三の丸と二の丸間、二の丸と本丸間は空堀と高い切岸で遮断されている。本丸は楕円状で周囲は土塁が巡らされ、人首川に面する斜面には帯状の腰郭で固めている。二の丸は本丸より大きく、水堀で周囲を固め、城主の居館があった。北の境目の守備において中心的な役割を担ってきた城である。(21要害城)
印象 人首川を挟んで、「えさし藤原の郷」がある。大手筋の岩谷堂小から入れば良かったが、藤原の郷側からの道を選んだ為、山道をくねくねしてやっと本丸下に到達した。城址公園になっており、よく整備されていた。曲輪・虎口・空堀・土塁の遺構が残る。二の丸は高校のグランド、三の丸は高校・小学校の敷地になっていた。城の規模は大きく、各曲輪を自然地形を活用した堅城。
地図
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略史  源頼朝の奥州合戦に従った功により、葛西清重は奥州総奉行として陸奥国の胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿の五郡を与えられた。江刺郡には葛西氏の支族千葉頼胤の三男胤道が配され、岩谷堂城を居城として江刺氏を名乗った。南北朝以後、江刺氏は勢力を拡大し、主家葛西氏との対立が激しくなり、ついには江刺隆見と葛西政信との戦いで隆見は敗北、岩谷堂は政信の孫・重胤が入城して江刺郡を支配した。その後豊臣秀吉の小田原征伐に葛西氏は参陣しなかった為、奥州仕置で所領没収となり、江刺氏も改易となった。仕置後、葛西氏旧領は木村吉清に与えられ、岩谷堂には家臣の溝口外記が入城したが、葛西・大崎一揆で外記は一揆勢に敗れて討ち死にした。これで木村氏も失脚、伊達政宗の支配となり、家臣の桑折長政が入城した。長政は用水路の開削や湿地の干拓事業など領地の整備に注力したが、朝鮮出兵中に釜山で病死した。その後伊達忠宗の子岩城宗則が入城し、大手の移転や城内の大規模整備等がなされた。岩城氏は以後9代続いて明治維新を迎えている。

人首川に架かる橋からの遠望

東側の曲輪と人首川に架かる大橋

本丸下の曲輪

本丸虎口

同土塁

本丸切岸

本丸腰曲輪

本丸土塁

本丸虎口(内部より)

同虎口土塁

本丸内の八幡神社

二清院(藤原経清・清衡父子を祀る)

本丸土塁

虎口

本丸切岸

本丸横堀

本丸腰曲輪


本丸土塁

同切岸

中の丸・二の丸方面

藤原氏御舘跡碑

中の丸

中の丸と二の丸間の空堀・土塁


二の丸土塁・腰曲輪

二の丸

同・土塁

二の丸大手門跡