日本の城跡

衣川関

関跡
訪問日 H22年 8月
ポイント 当地の西は沢になっており、北は急峻な絶壁が延々と続き、東は衣川の本流で、ここから下流は渡るのは不可能だった。”件の関は素より隘路にして険阻なり。こう函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進む能わず”と古文書に表現されている。但し、前九年の役では安倍貞任は源頼義、清原武貞連合軍の三方からの攻撃に対し、徹底抗戦をせず、関を捨てて鳥海柵に逃げてしまった。
印象 東北自動車道の陰に隠れて、細い側道のにひっそりと案内板と碑があった。人通りもなく、なんとなく不気味だった。小さな沢が衣川に流れ込み、周囲は断崖絶壁で、今は高速道路に遮られているが、衣川が迫っていただろう、天然の要害だ。
地図
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略史  802年、坂上田村麻呂の時代に胆沢城が築城され、東国の俘囚4千人が胆沢の柵に配置された。衣川関はこの頃造られたといわれている。衣川は胆沢の鎮守府が管轄する胆沢郡と、多賀国府が管轄する磐井郡の境界に当り、関は胆沢郡の宝塔谷地にあったが、奥六郡を支配した安倍頼義が本拠をこの地に移すと同時に関所もこの地に移した。
衣川