日本の城跡

鳥海柵


鳥海柵碑
訪問日 H29年10月
ポイント 柵は北上川とその支流の胆沢川の合流点から、西北2.5Km、胆沢川北岸に位置する。低地からの比高10mの金ヶ崎段丘の南先端に立地し、東西300m、南北500mの規模で、東西に延びる数本の堀によって区画されている。近接して胆沢城があることから、安倍12柵の中でも最重要拠点であったと思われる。
印象 以前から行きたくても、場所分からず断念していた。今回は事前に場所を確認、ついに訪問した。一部発掘中らしく、今後の楽しみだ。それにしても大きな柵で、今残る堀から想像してもかなりのものであったろう。
地図
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略史  鳥海柵は11世紀に陸奥国の奥六郡を支配した、豪族安倍氏の拠点であった。前九年の役は陸奥守藤原登任と安倍頼良との武力衝突から始まった。しかし頼良は源頼義の誘いに応じて安倍富忠と戦い、流れ矢に当たり、この柵に帰り亡くなっている。その後、源氏・清原連合軍の攻撃を受けて落柵した。安倍氏は衣川関陥落後、厨川柵へ走り最後の抗戦をしたが落柵して前九年の役は終了した。そして後三年の役を経て、奥州は藤原清衡の時代に移った。


     柵跡


同・発掘調査中