日本の城跡

柳之御所

案内
訪問日 H22年 8月
ポイント 三代藤原秀衡が鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられ、平泉は東北の政治の中心となり、柳之御所は政庁の役目を果たしていた。歴史書”吾妻鏡”に記されている”平泉館”と推定されている。
印象 前回訪問時は、発掘当初であまり関心がなかったが、今回はかなり期待。堀・園池・掘立柱建物・井戸・道路等が発掘されており、資料館での復元、遺物展示が追う往時を偲ばせた。また、御所跡から見える義経堂のある高館、北上川越しの大文字がある束稲山(京都賀茂川、東山)には考え深いものがあった。
地図
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略史  12年に及ぶ前九年の役も、源頼義が出羽の清原氏を味方につけることにより安倍氏は滅亡した。しかし、安倍氏の娘と、その夫の在庁官人の藤原経清の息子の清衡は助けられて清原氏に引き取られた。その後鎮守府将軍になり、奥六郡を支配した清原氏であったが、家中の内部争いが発生し、源義家を巻き込んだ後三年の役が勃発した。この争いは清原武貞の嫡子真衡、清衡、そして家衡の争いで、最終的には源義家を味方にした清衡が勝利し、清原氏は滅亡した。清衡は父藤原氏の姓を名乗り、奥六郡を治めた。そして本拠地を江刺郡の豊田館に構えて勢力を拡大する一方、関白藤原師実に貢馬するなど京都の藤原氏と交誼を深めるなどして、奥羽の統治者としての地位を固めていった。その後豊田から平泉のこの地に居を移し、政治文化の都市建設に着手し、中尊寺の再建など中央の仏教文化を導入し壮大な都市を造った。
 御所内の池・後の山は義経堂のある高館 同井戸 同・北上川の対岸の大文字がある束稲山(京都東山と賀茂川を連想)