日本の城跡

松山城(別称:千石館)・上野館

三の丸土塁・平場を見る
訪問日 H13年 5月
ポイント 遠藤氏は伊達家臣団の最北限として鳴瀬川を挟んで大崎氏と対抗。江戸時代に入り松山城の西向えにある下屋敷、上野館に本拠を移す。伊達一門の城。
印象 松山城は現在、城郭公園として整備され土塁、堀切、腰郭等良く分かる。尾根を切り取った山城であり江戸時代には不便になり、下に降りたようだ。
地図
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略史  遠藤盛継が応永八年(1401)に志田地方の奉行に任ぜられ以後200年居住した。伊達家臣団の最北拠点として大崎氏と対抗、その後登米に移封され、石川、古内、茂庭氏が入城。茂庭氏は松山城が手狭であることから下屋敷として上野館を築き、後隠居して居住した。更に子定元も居を上野館に移し松山城は留守居のみとなった。
三の丸土塁
三の丸方面・土塁
一の丸・土塁・空堀
二の丸方面・土塁
堀切
地図
上野館地図
上野館
遠望