日本の城跡
仙台城(別称:青葉城)
略史 伊達氏は源頼朝に従い、奥州征伐で軍功たて伊達郡に住した。関ヶ原で家康に与した伊達政宗は家康の許可を得て領域の北西に偏り、主要街道から外れた岩出山城から仙台に居城を移した。政宗は自ら城普請の縄張り始めを行い、天然の地形に恵まれた青葉山に短期間で堅固な名城を完成し仙台藩を立藩。政宗の時代は本丸だけの山城であったが二代忠宗が大手門の南に二の丸を構築して近世的な平山城となった。政宗は家臣の地方知行制を確立する一方、窮乏する財政を産金と海外貿易に求めたが交渉は失敗した。網宗は酒絡みの不謹慎を理由に21歳で逼塞、後継問題から”伊達騒動”が勃発し藩存亡の危機を招いた。次の綱村は新田開発、運河開削、製塩業の保護、産業馬の奨励等に注力し産業振興に努めた。次の吉村も寛永通宝の鋳銭事業で挙げた利潤を買米仕法でさらに増大、財政再建を果したがその後の大飢饉等で再度借金財政に陥った。戊辰時慶邦は会津降伏容認を嘆願したが受け入れられず新政府軍迎撃を決定、奥羽越同盟が成立し盟主となる。しかし各地で敗戦、米沢藩の降伏で仙台藩も恭順し謹慎のうえ、家名存続を許されたが減封された。 |
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