日本の城跡

仙台城(別称:青葉城)

城址公園・伊達政宗像・本丸
訪問日 H5年 8月 、 H 6年 3月、 H7年 4月 
ポイント 東側前面は広瀬川が流れ、西側背後は原始林が続く丘陵地で南側は70m以上の龍ノ口沢の峡谷が絶壁をなしている。天然の地形を利用した無類の要害。天守台はあるが天守は家康への配慮から建てなかった。戦災で焼失した大手門は肥前名古屋城の大手門を移築したもの。石垣に特色あり。大手門の北壁、中の門の西壁、本丸東北端壁、詰の門の東、西壁など高い石垣は”切込ハギ”、中の門の東壁、三の丸入口壁、清水門の南壁など低い石垣は”野面積み”、本丸裏側北西部の壁は”打込ハギ”となっている。
印象 単身赴任の広瀬川沿いにあるマンションから毎日青葉山を見る。龍ノ口の断崖、清流の広瀬川、本丸付近の高石垣、本丸から見る青葉茂れる町並み等見所多い。大手門の復興計画があるとの事楽しみ。
地図
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略史  伊達氏は源頼朝に従い、奥州征伐で軍功たて伊達郡に住した。関ヶ原で家康に与した伊達政宗は家康の許可を得て領域の北西に偏り、主要街道から外れた岩出山城から仙台に居城を移した。政宗は自ら城普請の縄張り始めを行い、天然の地形に恵まれた青葉山に短期間で堅固な名城を完成し仙台藩を立藩。政宗の時代は本丸だけの山城であったが二代忠宗が大手門の南に二の丸を構築して近世的な平山城となった。政宗は家臣の地方知行制を確立する一方、窮乏する財政を産金と海外貿易に求めたが交渉は失敗した。網宗は酒絡みの不謹慎を理由に21歳で逼塞、後継問題から”伊達騒動”が勃発し藩存亡の危機を招いた。次の綱村は新田開発、運河開削、製塩業の保護、産業馬の奨励等に注力し産業振興に努めた。次の吉村も寛永通宝の鋳銭事業で挙げた利潤を買米仕法でさらに増大、財政再建を果したがその後の大飢饉等で再度借金財政に陥った。戊辰時慶邦は会津降伏容認を嘆願したが受け入れられず新政府軍迎撃を決定、奥羽越同盟が成立し盟主となる。しかし各地で敗戦、米沢藩の降伏で仙台藩も恭順し謹慎のうえ、家名存続を許されたが減封された。
 縄張り
遠望
遠望
大橋・広瀬川
 本丸下・竜ノ口沢断崖
 
竜ノ口沢断崖
広瀬川断崖
三の丸長堀
大手門方面
大手門石垣・土塀
本丸詰門
中門
   本丸石垣
   
   
清水門石垣
大手隅櫓
同内側から
護国神社・本丸
武家屋敷門
七北の処刑場跡