日本の城跡

新庄城(別称:沼田城・鵜沼城)


本丸方面(この通路は近年のもの)
訪問日 H30年10月
ポイント 城は新庄盆地の中央部、神室山系から流れる中の川と指首野川が合流する湿地帯の微高地にある。縄張りは本丸を二の丸で囲み、北側に三の丸を配した梯郭式縄張りで、各郭とも大きな土塁と堀で固めている。本丸の三隅には二重櫓があり、北・東・南側中央に内枡形虎口が設けられ、一の門は櫓門、二の門は高麗門で厳重な門であった。新庄城はシンプルな構造で造られているが、石垣等目立った普請はなく、塁線には折れ・歪みを持ち、虎口はすべて枡形構造を採用するなど、質実剛健な城郭である。
印象 本丸に戸沢神社が鎮座。どっしりとした土塁と、一部埋められているが近世の城郭らしく幅広い水堀が見ごたえある。表御門の石垣が風格を感じさせた。桜の名所で市民の憩いの場所となっており、時期は秋だが、自分も土塁の上をのんびりと回って楽しんだ。
地図
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略史  新庄城は戦国末期、在地豪族の日野氏により築城されたが、日野氏は最上氏の配下となり、「最上四十八館」の一つに数えられた。江戸時代初期、内紛により最上氏が改易されると、常陸松岡から当地方に戸沢政盛が転封され、真室鮭延城に入城した。しかし鮭延城は狭く不便なことから、政盛は幕府に新城の築城を申請し許可を得た。政盛は廃城になっていた新庄の地に、義兄の山形城主鳥居忠政の縄張りにより築城を開始し、1625年に完成をみた。戸沢氏は二代正誠が、お家騒動を乗り切り藩政を確立し、外様ながら譜代の格式を得て、明治まで在城した。戊辰時、新政府側につき庄内藩を攻撃したが、逆に猛攻をうけて城下は焦土と化し落城した。

本丸・護国神社

本丸・南門

本丸南門跡・土塁

二の丸と本丸間の水堀

本丸表門方向・土塁

南東隅・武器櫓台

南側水堀

二の丸跡

二の丸跡

二の丸跡

東側水堀

   本丸から三の    丸方面

本丸表門石垣

本丸表門石垣

武器櫓跡

天満神社

南西隅・天満神社

西側土塁

西側水堀跡

西側水堀跡・土塁

同水堀跡と土塁


大納戸櫓跡・北側水堀跡

北門跡と土橋

土橋脇の用水路

北側水堀


北東隅・小納戸櫓跡

本丸内・藤嵐閣

本丸御物見跡

本丸内北部

戸沢神社