日本の城跡

鶴ヶ岡城(別称:大宝寺城)

大寶館・水堀・土塁
訪問日 H7年 5月
ポイント 純然たる平城で赤川と周囲に広がる低湿地帯を自然の要害として取り入れているが逆に赤川の洪水の原因ともなり泣き所にもなった。戦国の兵火に二度焼失したが最上義光が復興し、名も酒田の東禅寺城を亀ヶ崎城と改めたので鶴亀と対にしたもの。しかし鶴ヶ岡城が本格的近世城郭に造営したのは酒井氏である。深く、幅広い堀と土塁を巡らし、更に寺院28ヶ寺を城下町の周囲に配置している。
印象 戊辰時、新政府軍に徹底抗戦した為城は見る影も無く破却されてしまったらしい。更に公園となり、かなり改修されてはいるが、本丸・二の丸の土塁と堀に意地を感じた。明治の建物や民家を集めた致道博物館も必見の価値あり。
地図
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略史  武藤氏が築城した大宝寺城を上杉、最上氏が整備改修し名前も鶴ヶ岡城に改称した。しかし最上氏がお家騒動の咎で改易されると最上氏の領地は四分され徳川譜代の大名が配置され、庄内は松代から徳川四天王の酒井忠勝が外様の押さえとして入部し庄内藩の居城とした。藩財政は当初より窮乏し、倹約令・新田開発等実行したが解決できず忠徳の時豪商本間光丘を登用、再建を委ねる一方農政の大改革や藩校を創設し士風を刷新した。次の忠器も蝦夷地警備で財政圧迫、本間家からの援助で飢饉も凌いだ。天保に庄内、長岡、川越藩の三方所替えが命じられたが領民の阻止運動で撤回させたが、代わりに印旛沼疎水工事普請が課され莫大な費用が吸いとられた。幕末、庄内藩は”徳川の藩屏”として本領を発揮したが戊辰時三田薩摩屋敷焼き討ちの罪を問われ、会津藩と共に新政府軍の矢面に立たされた。奥羽越同盟軍の一員として徹底抗戦したが降伏。名も大泉藩と改称した。禄を失った士族3000人が松ヶ岡(現在の羽黒町)300町歩の開墾に従事した。
縄張り
庄内神社・本丸
二の丸西門
本丸・水堀
本丸渡櫓台・水堀・土塁
  
   旧鶴岡警察署
  
本丸隅櫓台