日本の城跡
鶴ヶ岡城(別称:大宝寺城)
略史 武藤氏が築城した大宝寺城を上杉、最上氏が整備改修し名前も鶴ヶ岡城に改称した。しかし最上氏がお家騒動の咎で改易されると最上氏の領地は四分され徳川譜代の大名が配置され、庄内は松代から徳川四天王の酒井忠勝が外様の押さえとして入部し庄内藩の居城とした。藩財政は当初より窮乏し、倹約令・新田開発等実行したが解決できず忠徳の時豪商本間光丘を登用、再建を委ねる一方農政の大改革や藩校を創設し士風を刷新した。次の忠器も蝦夷地警備で財政圧迫、本間家からの援助で飢饉も凌いだ。天保に庄内、長岡、川越藩の三方所替えが命じられたが領民の阻止運動で撤回させたが、代わりに印旛沼疎水工事普請が課され莫大な費用が吸いとられた。幕末、庄内藩は”徳川の藩屏”として本領を発揮したが戊辰時三田薩摩屋敷焼き討ちの罪を問われ、会津藩と共に新政府軍の矢面に立たされた。奥羽越同盟軍の一員として徹底抗戦したが降伏。名も大泉藩と改称した。禄を失った士族3000人が松ヶ岡(現在の羽黒町)300町歩の開墾に従事した。 |