日本の城跡

広島城(別称:鯉城・当麻城・在間城)

復興天守
訪問日 H22年 2月、H29年 5月
ポイント 太田川河口は幾条にも分流し、中州が発達し5箇の荘と呼ばれた。ここに造る為、島普請と呼ばれる大規模造成が実施された。汐留めの堤防で囲み、土盛りし、堀を穿った。輝元は聚楽第や大阪城を規範に造ったと言われ、天守も桃山初期の様式を良く伝えている。5重5層で上層は小さい為どっしりしている。屋根の反りは見事で2・3層目の千鳥破風が優美な姿をみせている。本丸は東西95間、南北120間あり、北半は一段高く、城主の館があった。二の丸は小さく、大手の虎口を固める一種の馬出。三の丸は本丸・二の丸をコの字形で抱き込んでおり大規模である。平城であり、石垣・水堀や川を利用した濠で防備し、大阪城にも匹敵する大城郭であるが、デルタ地帯の為か石垣のレベルは低い。
印象 浅野家別邸の縮景園から見る。回遊式庭園でなかなかのもの。浮島は亀の姿になっている。広島城は大本営の設置、連隊の駐屯、そして原爆投下ときびしい歴史を見てきた。しかし広島市の復興とともに、天守閣が復興し、更に最近では二の丸表御門・太鼓櫓・多聞櫓等復元され、石垣・広い堀・土塁等と合せ、浅野本家のがっしりした大城郭が復活している。原爆で大本営の建物もふっとび土台だけが残っていたが、ここで幾人もの兵隊さんが消えたと思うと一抹の悲しさが浮んだ。その後原爆ドームに行く。ツアーで再訪。水堀に映える天守は美しい。オバマ前大統領の広島訪問の影響か、米国人はじめ西洋人が沢山来ていた。
地図
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略史  中国山地の小盆地吉田荘の地頭職から身を起こした毛利元就は、中国・四国・九州に及ぶ9ケ国を平定し、百万石の大大名に成長した。そして孫の輝元は本拠地である山間の吉田郡山城を捨て、領国の中心で瀬戸内海の制海にも睨みがきく太田川の河口のデルタ地帯に城を築き、城下町を形成することを決意した。城普請は大規模土地造成に百万の総力を投入し、10年後に壮大な城郭が完成した。しかし輝元は翌年の関ケ原合戦で西軍の総大将にかつがれて敗れ、領国は防長二州に削られ萩に押し込められた。関ケ原の軍功で福島正則が芸備二州の太守として入城立藩したが、太田川の洪水による石垣の幕府に無断修理を咎められ改易となった。代わって外様の雄藩で、徳川家康の娘婿浅野長晟が紀州から入封し明治まで在藩した。長晟は知行、税、司法制度を整備した。綱長の時、分家赤穂藩浅野長矩の刃傷事件が発生したが、赤穂浪士の復讐に陰ながら援助した?次の吉長は藩主の直接政治の実現、軍制改革、文教の振興等藩政改革を断行した。更に藩の特産品の木綿・塩・紙の生産を奨励、統制した。その後の重晟も倹約令を実施し逼迫した藩財政の再建に努めたが、幕府の公役負担や将軍家との婚儀費用等で借財は膨らんだ。幕末、二度の長州征伐の本営となったが、長州藩との周旋に奔走、征長に名分がないことを主張し征長先鋒を辞退した。その後一時薩長芸三藩同盟を締結したが、挙兵倒幕を主張する薩長と相いれず除外されるが、戊辰時は錦旗を掲げて出兵した。明治維新では広島鎮台となり、日清戦争の際は大本営が置かれ、明治天皇を迎えた。山陽路最大の城郭である広島城は戦火に一度もさらされることはなかったが、原爆投下で一瞬にして焼失した。
二の丸表御門・手前は御門橋 同・平櫓 同・太鼓櫓 同御門内側から 同太鼓櫓内側から・多聞櫓
本丸中御門跡・大手虎口 二の丸から天守  中御門から二の丸・左に被爆したユーカリの木 中御門石垣 本丸下段、左側は馬場跡
本丸下段・前方御館 裏御門跡 同石垣・内堀
同内部より

裏御門石垣・合坂

本丸御舘跡

御舘跡

本丸・御舘周囲石垣
御館石垣・正則が無届修築で咎められた際に破却した石垣

大本営跡
本丸内堀・石垣 本丸内堀 同石垣・武者走り
同内堀


復興天守

天守台・南子天守跡

天守台石垣
天守より二の丸方面
同三の丸方面・原爆ドーム方面

縮景園

同庭園




同原爆投下後

原爆ドーム

以下再訪時の撮影分。復興天守

     内堀

   三の丸門跡

 内堀・三の丸平櫓台

    復興天守

三の丸跡
三重櫓台
二重櫓台・復興天守

二重櫓台

二の丸表御門

本丸南堀の二重櫓台(石垣は下三段が毛利、上が福島氏)

二の丸太鼓櫓

本丸二重櫓台
同から中御門方面 馬場脇の石垣・合坂 中国軍管区司令部地下通信室跡
石垣上から裏御門
同から反対側にある平櫓台方面
崩された本丸石垣
本丸石垣・本丸下段

本丸東小天守台石垣

天守台石垣

本丸下段と内堀側の石垣


移された天守台礎石

本丸南小天守台

昭憲皇太后御座所跡