日本の城跡

厳島神社・勝山城

厳島神社・鳥居
訪問日 H21年 9月
ポイント 全国厳島神社の総本社で、安芸国一宮である。宗像三女神の一つ、市杵島姫命は弁才天と習合しており、江ノ島・竹生島とともに”日本三弁天”のひとつとされる。また安芸の宮島は”日本三景”の一つである。さらに厳島の平舞台は四天王寺の石舞台、住吉大社の石舞台とともに”日本三舞台”の一つ。勝山城は大内氏の安芸侵攻の拠点として築城したが、実践的な拠点というより、厳島神社を威圧すると共に、瀬戸内商業交通上の要衝として栄えていた当島を掌握するための居館的性格の強い城であった。
印象 何年か振りの景色だ。島に近づくにつれ、赤い鳥居が鮮明に映ってくる。世界遺産になり、絶えず人の訪れがあるようだ。海上に浮かぶ社殿は、毎年季節に洗われる。社殿の後方の丘の上、多宝塔のある辺りに勝山城があった。瀬戸内海上の要衝である島、その守り神の厳島神社を掌握する城としての意味があったろう。
地図
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略史  古代より島そのものが神として信仰の対象であった。六世紀後半の推古天皇の時代、有力豪族の佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を受けて御笠浜に社殿を創建した。平安末期に平家一族の崇敬を受け、12世紀後半に平清盛が現在の社殿を造営した。平家の守り神として栄えたが、平家滅亡後も源氏をはじめとした時の権力者の嵩敬を受けた。戦国時代に社勢は衰退したが、毛利元就が厳島の戦いで勝利し一帯を支配下に置き、当社を嵩敬するようになり再度隆盛した。その後豊臣秀吉も九州征伐の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。明治に入り、国幣中社に、次いで官幣中社に昇格している。厳島神社の南方の小丘上、現在多宝塔が建っている辺りに勝山城跡がある。当城は戦国期に北九州、西中国に勢力を伸ばしていた大内氏が、安芸侵攻の拠点として築城した。戦国末期の厳島合戦に、一時は陶晴賢の居所となっている。宮島には他に、毛利元就が陶氏に対抗すべく築いた宮尾城が宮島桟橋の後方の台地にある。
鳥居の斜後方の多宝塔周辺が勝山城
厳島神社
同・鳥居
本殿前狛犬・五重塔
本殿
境内
能舞台