日本の城跡

安芸亀居城(別称:小方城)


本丸天守台
訪問日 H29年 5月
ポイント 城は背後に急峻の山、前面に瀬戸内海が広がり、山麓には山陽道が走る海陸要害の地であった。縄張りは山頂に本丸を置き、尾根に沿って二の丸・三の丸・有の丸・梨の丸・松の丸・名古屋丸と連なり、山腹から鐘の丸・妙現丸が配されていた。そして各曲輪は石垣によって固められ、毛利領との境目の城として、特に東側が堅固であった。広島城の支城として築城されたが、他国であれば5万石クラスの大名の居城に匹敵する構えであった。
印象 総石垣の城であったが、築城まもなく破却された。昭和50年代以降の修復工事で、極力従前の石を利用して積みなおされ、綺麗に総石垣の城郭が再現されている。少し綺麗すぎるかな。これから年月を経て、それなりの城として残っていくであろう。見事の一言!
地図
地図をクリックすると拡大します

略史  関ケ原の役で東軍に与した福島正則は、防長に改易された毛利氏の監視、封じ込め政策から、安芸・備後の大名として封じられ、広島城に入城した。正則はまず領国の抑えとして小方・三次・東城・三原に支城を築城することとし、小方に甥の福島伯耆を配した。伯耆は3年後の慶長八年から築城を開始し、5年後に完成したが、伯耆はその前年に死亡、山田・森氏が城番として入城した。しかし完成間もない3年後に、徳川幕府の圧力により廃城の憂き目を見ている。更に福島正則も広島城の無届け修築を理由に改易となっている。

なしの丸

有の丸北側の二段の石垣

有の丸の石垣
    有の丸

松の丸

松の丸

なしの丸切岸

なしの丸虎口

名古屋丸方面

名古屋丸虎口

名古屋丸・捨の丸方面

妙現丸方面

右側三の丸石垣

三の丸

二の丸へ

二の丸虎口

二の丸

二の丸

二の丸虎口

二の丸から本丸へ

二の丸から本丸帯曲輪と虎口

本丸高石垣

本丸虎口







本丸帯曲輪

大竹方面

本丸石垣





本丸から詰の丸

同の井戸跡

本丸帯曲輪の石垣

三の丸下段の石垣