日本の城跡
郡山城
略史 大江広元を祖とする毛利時親が安芸吉田荘の地頭となり郡山に城を築城した。以来毛利氏は代々郡山城を居城とし、戦国大名大内・尼子氏に挟まれ苦労したが、毛利元就が当主となり勢力を伸ばした。元就は大内氏の傘下に入り、尼子氏に敵対するようなった。尼子氏はこの為、3万ともいわれる大軍で郡山城を攻撃、元就は領民含めて8千人で籠城、籠城4ヶ月後に陶隆房率いる2万の大内軍と共に尼子軍を撃退勝利した。その後元就は知略を尽くして一族の反対勢力や石見の敵対勢力・高橋氏を滅ぼした。更に有力国人の小早川氏や吉川氏に子息を養子に入れて毛利氏体制(毛利両川)を強化し、勢力を拡大した。戦国大名となった毛利氏は大内氏を乗っ取った陶晴賢を厳島で破り、大内氏を滅ぼし、更に仇敵の尼子氏も滅ぼして中国地方を領有した。元就死後、輝元は石垣などを用いて郡山城を近世城郭に整備していったが、豊臣政権下に城下町の発展や交通の便等から本拠を広島に移すべく新城を築城した。関ヶ原の役後毛利氏は防長に移封され、郡山城は毛利氏から離れた。その後の一国一城令で廃城となり、島原の乱後に石垣・堀などが破却された。 |
遠望 |
大通院谷遺跡駐車場から内堀跡? |
同遺跡跡の薬研堀の内堀 |
毛利元就(一族)墓所入口 |
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参道 |
参道下の湿地 |
参道脇下の削平地 |
同 |
参道上の曲輪跡 |
一族墓所(洞春寺跡) |
同 |
最上段が元就、中段が一族の墓所 |
一族の墓所 |
同 |
元就公墓所 |
百万一心碑 |
堀切からの竪堀 |
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墓所の裏の尾根道 |
同にある嘯岳鼎虎禅師墓 |
本丸への尾根道 |
同 |
同 |
同(本丸まで530m) |
安芸高田市の眺め |
尾根道 |
釣井の壇の城塁 |
尾根道 |
大堀切 |
釣井の壇の切岸(崩された石垣) |
同 |
御蔵屋敷切岸 |
御蔵屋敷跡 |
同 |
同と三の丸切岸(崩された石垣) |
同 |
釣井の壇跡 |
同 |
同から本丸帯郭切岸 |
姫の丸へ、帯郭切岸 |
その下の急谷 |
釣井の壇方面 |
姫の丸跡 |
同から本丸帯郭切岸 |
釜屋の壇急崖 |
釜屋の壇虎口 |
釜屋の壇跡 |
同 |
竪堀 |
途中の急崖 |
途中の小曲輪 |
厩の壇跡 |
同 |
同に続く曲輪 |
三の丸 |
同・崩された石垣 |
同 |
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同 |
同・崩された石垣 |
同 |
同 |
同 |
二の丸 |
同 |
本丸 |
同櫓台 |
同 |
同から本丸・二の丸 |
二の丸虎口 |
二の丸切岸 |
三の丸 |
同 |
三の丸虎口 |
竪堀 |
御蔵屋敷跡と勢溜の壇間の堀切 |
勢溜の壇跡 |
同 |
同 |
同 |
勢溜の壇切岸 |
同 |
満願寺跡への途中の曲輪 |
振り返る |
満願寺跡 |
同 |
同 |
同の谷 |
尾崎丸跡 |
同 |
同堀切 |
尾崎丸跡 |
同の段郭 |
同 |
同 |
同 |
同 |
本城へ |
途中の堀切 |
尾根道 |
二本目の堀切 |
同 |
同 |
同 |
本城へ |
本城主郭切岸 |
同 |
同 |
主郭 |
同 |
同 |
二の郭 |
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三の郭 |
展望台? |
曲輪 |
同 |
竪堀 |
同 |
常栄寺跡 |
同 |
毛利隆元墓所 |
同 |
元就火葬場伝承地 | 御里屋敷跡(少年自然の家) |
三矢の訓跡碑
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