日本の城跡

郡山城

 訪問日  H26年 7月、H29年 5月
 ポイント  城は吉田荘中央の吉田盆地の北側にあり、陰陽を結ぶ備後路の要所として、また中国支配の拠点としての政治的色彩の濃い位置を占める。北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、比高190m、範囲は1K四方に広がる。遺構は山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など四方に延びる支尾根上すべてに大小270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。更に山麓を通る内堀とその外側を流れる川を利用した外堀の二本の堀を巡らしている。
 印象  大通院谷遺跡前に駐車。まず毛利元就の墓所参拝。そこから尾根伝いにやっころ、そっこら登って本丸部分に。本丸を中心に四方に伸びた尾根を削平して曲輪を作っている。御蔵屋敷跡から左まわりに見て回る。それぞれの曲輪は結構広い。厩の壇から元就・輝元が住んだといわれる三の丸・二の丸、そして本丸へ。島原の乱後、崩された石垣が散乱していたが、当時の威勢を感じた。次に細長く大きな勢溜の壇を見て、万願寺跡から尾崎丸へ。ここから一気に旧本城に挑戦。ところが登城ルートでなく直接挑んだ為、細い山坂に苦戦す。ようやく辿り着いた旧本城が整備されておらず、結構狭く藪に阻まれ全体を見られず残念。その後、道に迷い、弱気になりながらも、なんとか隆元の墓所を見て駐車場に戻ることができた。全山要塞化した巨大な山城で、さすが毛利氏の本城だった。再訪。麓周辺。
 地図  
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略史  大江広元を祖とする毛利時親が安芸吉田荘の地頭となり郡山に城を築城した。以来毛利氏は代々郡山城を居城とし、戦国大名大内・尼子氏に挟まれ苦労したが、毛利元就が当主となり勢力を伸ばした。元就は大内氏の傘下に入り、尼子氏に敵対するようなった。尼子氏はこの為、3万ともいわれる大軍で郡山城を攻撃、元就は領民含めて8千人で籠城、籠城4ヶ月後に陶隆房率いる2万の大内軍と共に尼子軍を撃退勝利した。その後元就は知略を尽くして一族の反対勢力や石見の敵対勢力・高橋氏を滅ぼした。更に有力国人の小早川氏や吉川氏に子息を養子に入れて毛利氏体制(毛利両川)を強化し、勢力を拡大した。戦国大名となった毛利氏は大内氏を乗っ取った陶晴賢を厳島で破り、大内氏を滅ぼし、更に仇敵の尼子氏も滅ぼして中国地方を領有した。元就死後、輝元は石垣などを用いて郡山城を近世城郭に整備していったが、豊臣政権下に城下町の発展や交通の便等から本拠を広島に移すべく新城を築城した。関ヶ原の役後毛利氏は防長に移封され、郡山城は毛利氏から離れた。その後の一国一城令で廃城となり、島原の乱後に石垣・堀などが破却された。

遠望

大通院谷遺跡駐車場から内堀跡?

同遺跡跡の薬研堀の内堀

毛利元就(一族)墓所入口

参道

参道下の湿地

参道脇下の削平地


参道上の曲輪跡

一族墓所(洞春寺跡)


最上段が元就、中段が一族の墓所

一族の墓所


元就公墓所

百万一心碑

堀切

堀切からの竪堀

墓所の裏の尾根道

同にある嘯岳鼎虎禅師墓

本丸への尾根道



同(本丸まで530m)

安芸高田市の眺め

尾根道

釣井の壇の城塁

尾根道

大堀切

釣井の壇の切岸(崩された石垣)


御蔵屋敷切岸

御蔵屋敷跡


同と三の丸切岸(崩された石垣)


釣井の壇跡


同から本丸帯郭切岸

姫の丸へ、帯郭切岸

その下の急谷

釣井の壇方面

姫の丸跡

同から本丸帯郭切岸

釜屋の壇急崖

釜屋の壇虎口

釜屋の壇跡


竪堀

途中の急崖

途中の小曲輪

厩の壇跡


同に続く曲輪

三の丸

同・崩された石垣




同・崩された石垣




二の丸


本丸

同櫓台


同から本丸・二の丸

二の丸虎口

二の丸切岸

三の丸


三の丸虎口

竪堀

御蔵屋敷跡と勢溜の壇間の堀切

勢溜の壇跡




勢溜の壇切岸


満願寺跡への途中の曲輪

振り返る

満願寺跡



同の谷

尾崎丸跡


同堀切

尾崎丸跡

同の段郭





本城へ

途中の堀切

尾根道

二本目の堀切




本城へ

本城主郭切岸




主郭



二の郭

三の郭

展望台?

曲輪


竪堀


常栄寺跡


毛利隆元墓所

元就火葬場伝承地
御里屋敷跡(少年自然の家)
  三矢の訓跡碑