日本の城跡

小倉山城(別称:小倉城・小蔵山城・紅葉山城)


登城口
 訪問日  H26年 7月、H29年 5月
 ポイント  城は大朝盆地の北端、北から南に伸びた丘陵末端に築かれた山城。周囲に複雑に入り込んだ小谷を巧みに利用している。頂部の主郭を中心に北・南・南西に伸びた稜線に郭を展開した本城域を中心に全体的に南側に伸びた馬蹄状稜線を城域としている。そして西側に二の郭、北側に三の郭を配し、堀切で仕切っている。比高差の小さい北から北東側に、湿地帯を築提を築き濠で防衛した。城地は大朝盆地を一望できる要地であり、更に大朝から岩見の井原・川本に繋がる岩見街道の要衝に位置する統治上、軍事上の重要拠点である。
 印象  立派な駐車場が完備。そこから比較的楽に登れた。屋敷跡のような郭から二の郭へ、堀を挟んで高い切岸で守られた主郭へ。眺望がすばらしい。主郭下の腰郭を廻り三の郭へ、登り土塁を初めて目の前でみた。その後広い御座所跡・井戸、その下の郭を見て戻る。城の麓は水田になっており、当時は湿地であったろう。また右に廻ると土塁で止められた岡崎池があり、濠の役目を果たしていた。再訪。今回は尾崎池から菖蒲園・御座所経由で主郭へ。御座所を守る大堀切は圧巻だ。そして多数の地元の方々が雑草取りをしていた。感謝!
 地図  
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略史  鎌倉末期、安芸大朝庄の地頭に任じられていた駿河の吉川氏は、経高の代にそれまでの代官支配を止めて下向し、駿河丸城を築いて統治拠点とした。南北朝期には吉川氏は北朝方の嫡流家と南朝方の庶流に分れ対峙したが、嫡流家に後継者がいなかったため、庶流の吉川経見が惣領家の家督を継ぎ、小倉山城を築城した。室町中期には経基が応仁の乱で東軍の細川勝元方に与して軍功を挙げ、「鬼吉川」と称され、安芸北西部の有力国人に成長した。その後吉川氏は隣国の戦国大名の大内氏や尼子氏、毛利氏と結び、生き残りを図った。しかし興経の時、大内方として月山富田城攻略中に尼子方に寝返った為大内方は惨敗、この行動に叔父の吉川経世ら家臣団は不信感を持ち、毛利元就と共謀して興経を隠居させ、次男の元春を吉川氏の党首とした。こうして吉川氏は毛利氏の体制に組み込まれ、元春は拠点として日野山城を築城し移り住んだ為、小倉山城は廃城となった。それにしても戦国時代の有力国人、吉川氏と三次の三吉氏に同じような生き様がみられた。

北側からの遠望

空からの主郭

屋敷地
    登城道

右に二の郭土塁

主郭と二の郭(右)間の堀切







同切岸

二の郭から腰郭

二の郭から御座所

主郭へ、右は御座所

堀切から御座所

主郭帯郭の切岸

主郭西側の帯郭

同北側の腰郭

同から主郭切岸


三の郭へ、右は登土塁

同登土塁

三の郭との堀切

三の郭土塁と腰郭

三の郭土塁・虎口

三の郭

三の郭腰郭

主郭の段差のある帯郭

主郭切岸

同南西の帯郭

同の主郭切岸

同南側の腰郭

建物跡のある主郭

主郭より南側腰郭

二匹の蝶

同主郭

北西に伸びる段差のある主郭

主郭より

御座所・井戸跡

同から二の郭方面

同から主郭方面

御座所奥の切岸

御座所方面からの二の郭と主郭間の堀切

濠の役目の尾崎池

南側からの遠望

以下H29年5月撮影主郭下の曲輪
      同
  主郭への登城道
   竪堀・土塁

菖蒲園
菖蒲園から主郭方面
 御座所下の曲輪
  御座所土塁

御座所の大堀切
     同

菖蒲園からの虎口

御座所