日本の城跡

備中高松城(別称:沼城)

本丸遠望
訪問日 H22年 2月
ポイント 高松城は足守川の右岸、加陽デルタの氾濫原野のただなかに位置し、わずかな丘陵地をめぐり一面の沼地を天然の堀として利用した沼城。本丸は古墳を平らにならし、堀も利用している。城郭構造は土壇築成で、本丸を中心に、南に二の丸が連なり、これらを三の丸と家中屋敷といわれる弓状の曲輪が取り囲んでいる。旧山陽道が南方を東西に走り、伯耆と備中を結ぶ大山道との結節点にあたる軍事・交通の要衝で、南下する足守川の両岸には高松城・冠山城等”境目七城”が配置されていた。
印象 あまりにも綺麗な城跡公園になっており、少しがっかり。堤跡を最初に見て、次に田園地帯をのんびりと歩いていく。途中、最上稲荷の石造りの大きな鳥居がありびっくり。軍事・交通の要衝であるが、平城であり、秀吉の大軍であればひとたまりもなかったろうに・・・と思ったが水攻めまで?実際本丸・二の丸・三の丸を廻って見ると今でも水堀と湿田に囲まれており苦戦を理解。
地図
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略史  高松城は松山城の三村氏が、戦国末期に備前の宇喜多氏に対抗して有力武将石川久弐に築城させた。しかし石川氏が三村氏とともに毛利氏により滅亡、毛利氏の有に帰した。毛利氏は織田信長の中国侵攻の報に接し、高松城を主城とした連携防備を決定し、石川氏の娘婿清水宗治を毛利氏方守将として入城させた。織田方の主将、羽柴秀吉は高松城を見下ろす竜王山に本陣を置き、連日攻撃したが城を取り巻く沼地に阻まれ消耗戦となった。この為秀吉は足守川をせきとめて城を水没させる為の高さ7mの堤防を築いた。工事は完成し城は湖中に孤立したが、毛利方も輝元自らも出兵、小早川・吉川の諸将ら援軍西方に到着、秀吉も信長の出兵を願い総決戦に臨んだ。信長は安土から京都に到着、明智光秀に援軍として出陣を命じたが、高松では城を挟んで両軍対峙の状況が続いた。この間に毛利方の安国寺恵瓊が城主・清水宗治の切腹を条件とする講和が話し合われ、城兵の救済・国境の策定などが決定し、宗治は見事切腹して果てた。このとき秀吉は既に、信長が本能寺で光秀により斃れた報を知っていたが、これを隠して宗治切腹、和議成立を見届けて撤兵した。毛利方もその日のうちに信長横死を知るが、和議の信条を護り追撃しなかった。以後毛利氏は秀吉と兵を交えていない。高松城はその後岡山の宇喜多領となり、重臣花房正成が城主となり、大改修を実施した。関ケ原後徳川家康の旗本で、家中騒動で追放された旧宇喜多氏の武将花房職之が居城(陣屋)としたが、幕藩体制の確立後に松山往来沿いに知行所を構えた為廃城となった。
三の丸 蓮池
本丸・蓮池
本丸土塁・水堀  本丸・左に宗治の首塚 同裏側から 同土塁・水堀
蓮池・遠方に石鳥居が見える 周囲の湿田 ごうやぶ(家臣殉死の場)と宗治自刃跡、三の丸跡 宗治自刃之跡、三の丸跡
三の丸方面
舟橋跡[外堀)舟を並べて出撃した 水攻築堤跡・後方の山に秀吉の本陣 同土塁 同碑
同工事跡 最上稲荷鳥居  水攻め図 駅前のお寺