日本の城跡
備中高松城(別称:沼城)
略史 高松城は松山城の三村氏が、戦国末期に備前の宇喜多氏に対抗して有力武将石川久弐に築城させた。しかし石川氏が三村氏とともに毛利氏により滅亡、毛利氏の有に帰した。毛利氏は織田信長の中国侵攻の報に接し、高松城を主城とした連携防備を決定し、石川氏の娘婿清水宗治を毛利氏方守将として入城させた。織田方の主将、羽柴秀吉は高松城を見下ろす竜王山に本陣を置き、連日攻撃したが城を取り巻く沼地に阻まれ消耗戦となった。この為秀吉は足守川をせきとめて城を水没させる為の高さ7mの堤防を築いた。工事は完成し城は湖中に孤立したが、毛利方も輝元自らも出兵、小早川・吉川の諸将ら援軍西方に到着、秀吉も信長の出兵を願い総決戦に臨んだ。信長は安土から京都に到着、明智光秀に援軍として出陣を命じたが、高松では城を挟んで両軍対峙の状況が続いた。この間に毛利方の安国寺恵瓊が城主・清水宗治の切腹を条件とする講和が話し合われ、城兵の救済・国境の策定などが決定し、宗治は見事切腹して果てた。このとき秀吉は既に、信長が本能寺で光秀により斃れた報を知っていたが、これを隠して宗治切腹、和議成立を見届けて撤兵した。毛利方もその日のうちに信長横死を知るが、和議の信条を護り追撃しなかった。以後毛利氏は秀吉と兵を交えていない。高松城はその後岡山の宇喜多領となり、重臣花房正成が城主となり、大改修を実施した。関ケ原後徳川家康の旗本で、家中騒動で追放された旧宇喜多氏の武将花房職之が居城(陣屋)としたが、幕藩体制の確立後に松山往来沿いに知行所を構えた為廃城となった。 |