日本の城跡
福山城(別称:久松城)
略史 関ヶ原後、安芸・備後一円を領有していた福島正則は改易となり、譜代の重臣で徳川家康の従兄弟である水野勝成が備後南部十万石で入封した。水野氏は内陸にあるそれまでの主城神辺城と瀬戸内の中央,、鞆城をあわせて一城にすべく、芦田川河口のデルタ地帯に浮かぶ丘に築城した。水野氏は城下町の整備、畳表・木綿生産の奨励統制をしたが、嗣子続かず五代で断絶した。代わって松平忠雅、阿部正邦と親藩・譜代が入封した。阿部氏は正右、正倫、正弘とも寺社奉行・老中など幕府要職を歴任、特に正弘はぺり−再来航で開国を決意し日米和親条約を締結した。また藩校弘道館を廃し、誠之館を創設し文武修練に努めた。しかし長州征伐で敗退、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍に勤王を誓った。 |
これよりH22年2月訪問時の写真 | ||||