日本の城跡

福山城(別称:久松城)

本丸復元天守・付櫓
訪問日 H21年 9月、H22年 2月
ポイント 福山は瀬戸内の中央、干満潮の分岐線上の山陽道側の中点に位置し、古代から潮待ち港が点在する航路の重要港湾であった。湾内に流れる芦田川がデルタをつくり、いくつかの荘園を形成し、河口に近い草戸千軒と称する港町が賑っていた。徳川の重臣水野氏はここに毛利・島津氏ら西国外様大名の東上を阻む西国鎮衛の幕府防衛の拠点を築城した。幕府も伏見桃山城の櫓・門・塀を提供、勝成は更に大阪城の天守を模した五層の大天守を築いた他、三十三の櫓が林立、芦田川や海水を利用して内・外堀とする大城郭とした。天守は北面の一階から四階までの外壁に鉄板が張り付けられた我が国唯一の特異な構造。他方、千鳥破風や唐破風の変化に富む軒廻りに一重の南北、二重の東西を比翼入母屋造りとなし、二層三重の付櫓が見事に複合された桃山文化の粋であり城郭建築の典型である。
印象 福山駅から城の雄姿が観賞できることで有名で、山陽の旅路が半分経過した格好の標識になっている。城の三の丸・内堀を埋めて駅舎を造ったが、本丸他が残ったのが救いだ。今回は旅行の途中で僅かな時間をつくり駆け回った。復興も含めて天守・門・櫓・石垣が残り堂々たる城郭だったことを感じた。再訪したい。 H22年2月再訪。ゆっくりと廻る。二の丸・三の丸が二重・三重となって守っている。高石垣とその上に立つ櫓群が想像でき、圧倒的迫力を感じた。堀がすべて埋められていたのがおしまれる。
地図
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略史  関ヶ原後、安芸・備後一円を領有していた福島正則は改易となり、譜代の重臣で徳川家康の従兄弟である水野勝成が備後南部十万石で入封した。水野氏は内陸にあるそれまでの主城神辺城と瀬戸内の中央,、鞆城をあわせて一城にすべく、芦田川河口のデルタ地帯に浮かぶ丘に築城した。水野氏は城下町の整備、畳表・木綿生産の奨励統制をしたが、嗣子続かず五代で断絶した。代わって松平忠雅、阿部正邦と親藩・譜代が入封した。阿部氏は正右、正倫、正弘とも寺社奉行・老中など幕府要職を歴任、特に正弘はぺり−再来航で開国を決意し日米和親条約を締結した。また藩校弘道館を廃し、誠之館を創設し文武修練に努めた。しかし長州征伐で敗退、鳥羽伏見の戦いでは新政府軍に勤王を誓った。
二の丸石垣・城碑
復元月見櫓
伏見櫓・筋鉄門(伏見城移築)
二の丸石垣・福山駅
筋鉄門
同内側より
伏見御殿跡
復元湯殿
復元鏡櫓
復元月見櫓
鐘櫓
本丸より二の丸
多聞櫓台
同合坂
神辺櫓台・石垣
  これよりH22年2月訪問時の写真
本丸より天守
二の丸より天守
鐘櫓
  伏見櫓
伏見櫓西側二の丸
月見櫓
 本丸南側二の丸・湯殿
本丸櫓台
本丸井戸
本丸棗木御門跡
同石垣
 本丸櫓台・石垣・手前二の丸
本丸より二の丸
  本丸石垣・手前二の丸
同・水路    二の丸にある旧天守台礎石・後方は城米蔵跡 東上り楯門・櫓台石垣 御用屋敷石垣
  御用屋敷(福寿会館)へ  二の丸蔵門近くの石垣 二の丸北側の天神山・護国神社 小丸山(出城) 内藤家長屋門
三の丸北御門外桝形石垣・御屋形跡 三の丸涼櫓台石垣 外堀南東石垣 駅前、三の丸より
二の丸内堀跡