日本の城跡

岡山城(別称:烏城・石山城)

本丸・天守閣
訪問日 H17年 2月
ポイント 宇喜多直家は西国街道を城下に導き、沿道に町家を集め東西交通の要衝となり、更に山陰。西国を結ぶ南北交通の交差点にした。当城は梯郭式縄張で、天守は「鳥城」と呼ばれ下見板が黒く塗られている。構造は二階建ての建物を大・中・小と三重に結合した井楼式通柱工法で、上への逓減が目立つ。これは関ヶ原以前の天守の特色で、安土城天守を写したものと言われる。また、この城は秀家が旭川の流れを本丸下に変えた、「後堅固の城」である。天守以下、三層櫓十一基、二層櫓二十六基を備えた壮大な城郭であった。
印象 復元天守であるが。下見板の黒と軒下の白壁のコントラストが綺麗だ。立派な石垣、不明門・多聞渡櫓、月見櫓が残る。本丸下を流れる旭川、非常時には戦闘用となる名園・後楽園が後を守っている。また、三家の石垣の積み方が場所により異なり、時代の変遷が感じられた。ただ、城郭周辺は二の丸など開発が進み役所・ビルが建ち並んでいたのが残念だ。
地図
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略史  応仁の乱で赤松氏に与して守護代のクラスになった、松田氏の配下で名主層(国侍)の金光備前が城を構えた。しかし宇喜多直家が備前の子宗高を殺害して城を奪取し、大改装して居城とした。豊臣秀吉の代になって跡目を継いだ秀家は備前・美作他を領有する太守となり、天守を中心とした近世城郭に一新した。関ヶ原で秀家滅亡後小早川秀秋が入城し、外堀の増設等城域の拡張と城下町の緑辺防備を強化した。秀秋の病死で小早川家は断絶し、代わって姫路城主池田輝政の五男忠継が城主となり立藩した。しかし忠継が急逝し弟忠雄が相続、次の光仲が幼少であった為輝政の孫、鳥取藩主池田光政と国替えとなった。光政は儒学を奨励し文治主義に基づいた藩政をしいた外、新田開発、殖産興業を図り質素を本旨とした備前風を確立した。次の綱政は新田開発、治水等を積極的に実施、後楽園の造営、閑谷学校の改築も行った。治政の時災害の為藩財政は困窮したが、松平定信の寛政の改革に故意に逆らってもいる。その後も凶作、飢饉から財政は破綻し再建の為簡略を主旨とする安政の改革を実施した。幕末、水戸斉昭の子茂政を養氏に迎え、鳥取藩と共に長州藩の攘夷親征には自重すべき旨を建議した。この為長州征伐も名目的出兵に止まり、将軍慶喜との板挟みに苦悩したが最後は勤王の旗幟を鮮明にして転戦した。
内堀・大手門
内堀・太鼓櫓台・修復櫓台・石垣
内堀
大手門桝形(打込みハギ)
下の段帯曲輪・大納言櫓台石垣
本丸石垣
不明門多聞渡櫓
本丸虎口
不明門多聞渡櫓・土塀・石垣
 
不明門
同内側から
本丸・表書院跡
鯱・後楽園方向
旭川・街並み
月見櫓
天守石垣・野面積み
廊下門
同・打込ハギの石垣
旭川・月見櫓
旭川
天守閣
   本丸石垣(積み方が違う)
  
    同・野面積み
  
大手門周辺の巨石
    大手門石垣・打込みハギ
対面所・長屋門