日本の城跡

倉吉陣屋


陣屋跡
 訪問日  H26年10月
 ポイント  鳥取藩は大藩であった為、領内に有力家臣や一族を配し、一定の独立権を与えた自分手政治が行われ、倉吉に陣屋を造り、代々荒尾家が一万二千石の領主となった。荒尾氏は藩士約45人と陪臣、足軽を常駐させ統治した。そして米子と鳥取の中継要地として、陣屋町を整備して今日の倉吉の基礎を築いた。掘割に沿って残る蔵屋敷街が藩政陣屋支配を物語っている。現在の正徳小学校に陣屋を設けたことから、荒尾家の家紋”九曜の星”の影を校章としている。
 印象  大名並みの石高の陣屋。今は小学校になっており、石垣の一部が残っていた。陣屋の当時の案内を見ると、かなり立派な構えだったようだ。主要国道から外れた為か、蔵屋敷街はじめ旧街並みが静かに残っていた。
 地図  
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略史  関ヶ原の役後、伯耆には中村一忠が入封、打吹山城には城番として重臣の山田氏が入城した。しかし一忠の病没により幕府の天領となり、更に一国一城令により、城は廃城となり破却された。その後池田光政が因幡・伯耆の太守となり入封、大久保長安事件に連座し、館山藩から倉吉藩を立藩していた里見忠義の所領を没収、重臣伊木忠貞に倉吉を治めさせた。1632年に池田光仲が鳥取に入封すると、次席家老の荒尾氏が打吹山麓に陣屋を構えて明治まで治めた。

陣屋石垣

陣屋跡の小学校

小学校に残る陣屋時代のシイの木?

陣屋跡の小学校

土塁

この石垣は?

当時の庭園を活用したものか

地元出身の琴桜関

街並み




大岳院

同寺内の里見家墓所