日本の城跡

米子城(別称:湊山城・久米城)


本丸石垣
 訪問日  H26年10月
 ポイント  城は本丸を湊山の山頂に置き、北西峰続きの丸山に内膳丸を、その山麓に二の丸・三の丸を配し、また東方峰続きの飯山が三の丸に含まれていた。堀は三の丸(飯山)の裾を切って海水を深浦(水軍施設あり)から外堀・内堀に取り入れて大手に巡らし、中海に繋げた海に囲まれた浮城でもあった。本丸大天守の石垣は高石垣でなく、野面積の三段の石垣であること、小曲輪を四方に、または尾根伝いに配していること、本丸には要所には二重櫓が配されているが、山下の二の丸・三の丸には櫓が少なく、更に表門・裏門の枡形が一ノ門を欠くなど防禦施設が未発達なこと等、中世と近世城郭の折衷・過渡期の形態が見られる。しかし山頂に聳え立つ造営時期の異なる新旧二基の大小天守は本城である鳥取城を凌ぎ、後の松江城・萩城天守に劣らない山陰の貴重な天守建築であった。
 印象  夕日せまる中に登城。海側の鈴の門からまず出丸となる内膳丸へ。結構広く、虎口はじめ石垣で固められ、櫓跡もあった。次に本丸へ行くと、いやびっくり、大天守三段の石垣が目に飛び込んできた。小天守と言われる三重櫓台の高石垣を抜け、本丸そして天守台に登る。眺望がすごい、調度夕日が沈むところで、中海が赤く染まっていた。本丸には11基の櫓があったようで、その堅固さが偲ばれる。とにかく石垣の素晴らしさは印象深い。その後山下の二の丸・三の丸へ、今は運動場・野球場に変貌していたが、二の丸枡形門の大きさには驚いた。水堀が埋められ道路になってしまい、浮城の様子が窺いしれず残念だった。
 地図  
地図をクリックすると拡大します

略史  米子城は応仁の乱の頃、伯耆守護山名教之が現在の城がある湊山に隣接する飯山に築城した。戦国期に尼子氏の支配となったが、毛利元就の山陰平定後、尼子氏の本拠月山富田城に入城した吉川広家は、富田城が奥まっているため米子に近世城郭を築くべく、湊山に築城を開始した。しかし着工まもなく広家は朝鮮出兵し工事は中断、帰国後再開したが、関ヶ原の役で西軍の総大将であった毛利輝元は長門萩に減封、吉川広家も周防岩国に移された。替って駿河から中村一忠が伯耆に入封し、米子城に入城した。そして築城を再開、四重五層の天守・御殿等を造営し、今日の形を完成した。この間、幼年の一忠を支えて藩政・産業振興に敏腕を振るった執政横田内膳が、一忠の側近に疎まれ暗殺され、これを恨んだ内膳一族との抗争事件が勃発、富田城の堀尾氏の加勢を得て鎮圧した。このお家騒動で幕府から首謀者らに切腹を申付けられたが、一忠は処分を免れた。しかし一忠は数年後急逝、嗣子なくお家は断絶となった。このあと伯耆は三分され、加藤貞泰が米子城に入封したが、大坂夏の陣の軍功で伊予大洲に転封した。替って池田光政が鳥取城に入封し、米子城には同族の池田由成を入れた。その後国替えで池田光仲が三歳で入封、将軍家光は家老の荒尾成利ら三人に幼君の補佐を命じ、成利に米子城を与えた。光仲はその後果敢に藩政改革を実施し、成利の専横を押えて藩主親政を確立した。荒尾家は米子を明治まで統治した。

鈴の門から登城

内膳丸と本丸への分岐虎口

内膳丸へ

内膳丸虎口



同内部より

更に内膳丸御殿跡虎口



同から本丸方向

同の石垣


本丸手前の虎口

いよいよ本丸

本丸番所跡虎口

本丸大天守石垣

本丸石垣

虎口振り返る

番所跡虎口

番所跡

大天守・小天守石垣

番所跡石垣

番所跡方向

虎口

鉄御門跡

小天守台

同下にあった穴を開けられた巨石

同鉄御門石垣

同御門跡

同を上から見る

大天守台

同三段の石垣

同大天守台礎石



同天守からの中海


本丸内の門跡

同反対側から

同門跡礎石

同内の門跡

同石垣

同から本丸断崖

同断崖

水の手御門跡





本丸から遠見櫓台への階段

遠見櫓台


同石垣断崖

遠見櫓台側の本丸石垣


本丸石垣




大天守台三段石垣

御殿御用井戸

二の丸跡

二の丸石垣

二の丸裏門

移築小原家長屋門


二の丸表門桝形



同、後は飯山



三の丸跡


同付近から出丸