日本の城跡
鹿野城(別称:王舎城・志加奴城・鹿奴城)
略史 鹿野城の築城時期は明らかでないが、山名氏麾下の城将志加奴入道が守っていたが、1543年富田城の尼子晴久に討たれた。その後、毛利氏の因幡侵入に伴い、尼子氏と毛利氏との抗争は激化し、度々城将は変わった。織田信長に中国攻めを命じられた豊臣秀吉は、鹿野城を攻略、尼子氏の旧臣で山中鹿之助の義兄弟で本能寺の変後秀吉に仕えた亀井茲矩を城番として入城させた。毛利氏との戦いが激化するなか、秀吉は鹿野城の放棄も考えたが、鳥取城攻めで軍功を挙げた亀井氏をそのまま城主に任じた。亀井氏は関ヶ原の役で東軍に与し、軍功を挙げて加増され、加えて幕府より朱印船貿易が許可され富をなした。次の政矩の時津和野に移封、鳥取藩領となったが、播磨山崎藩主池田輝澄(輝政の四男)が甥の鳥取藩主池田光仲にお預けとなり、一万石を与えられ鹿野に籠居した。次の政直の時、播磨福本に転封となり、再度鳥取藩領となった。光仲は次男仲澄に新墾田を分与し、支藩として立藩、東館と呼ばれた。戊辰時、新政府軍として参戦し、後に宗家に合併廃藩となった。 |