日本の城跡

中荒城(別称:茶臼山城)


遠望
訪問日 H29年 5月
ポイント 城は堀切を挟んで東西の曲輪で構成されている。東側は規模も小さく、切岸も甘い。西側は大きく二段の曲輪に分かれ、低い石積で固めている。六段の曲輪の周囲を東南から南、西、北方向に空堀が取り巻くように堀削され、その空堀から18本の竪堀が放射状に連続して掘り下げられている貴重な遺構が残る。
印象 津和野城から尾根伝いに行くと、途中に堀切、曲輪が配され、その先に中荒城があった。城は規模は小さいが、横堀とそれに繋がる18条の畝状竪堀が有名だが、当日はその横堀に下りる道筋が見つからないということで、竪堀が確認できなかった。残念だ。もう少し事前調査が必要だと思う。神社に下りる途中、数本の竪堀を発見、せめてもの救い。神社の馬場は本当に素晴らしい。流鏑馬を見てみたいものだ。
地図
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略史  文永・弘安の蒙古軍の北九州への来襲を受けて、鎌倉幕府は西岩見の海岸防備を能登吉見氏の庶流吉見頼行に命じた。頼行は木曽野(津和野北西部)に地頭として入り、この城山山脈に三本松城(後の津和野城)の前身として、まず見張りのきく当城を築いた。その後も増築補強され、戦国時代には三本松城の戦いの際に竪堀等が構築され、陶氏の攻撃にも100日籠城に耐えている。吉見氏は毛利氏の傘下で勢力を伸ばしていたが、関ケ原の役後の毛利氏の改易に伴い萩に従った。代わって三本松城(津和野城)に入城した坂崎出羽守は、三本松城の城域を縮小し、山頂部分を総石垣の城として改修、中荒城は放置された。


途中の南出丸

南出丸


堀切

竪堀

堀切・土橋

堀切

竪堀

東の曲輪



西の曲輪



同・散らばる石積


下に横堀か

下に横堀

東の曲輪堀切



竪堀

竪堀

竪堀

竪堀

千年杉の大木

鷲原神宮


流鏑馬馬場