日本の城跡
松江城(別称:千鳥城)
略史 関ヶ原の役後、堀尾吉晴が浜松から出雲・隠岐両国に加増移封された。当初、出雲守護職の居城月山富田城に入城、大規模な改修を行った。しかし富田城が尼子氏の伝統を守った山城であり、領国の東に偏っていた為新城築城を考え、領国のほぼ中央に位置し、水運に恵まれた交通の要衝、松江に白羽の矢を立てた。松江には尼子合戦の際に毛利軍の前線基地となった要害の山、洗合山があったが、城地が広すぎて維持困難としてその東にあって、かってこの地方の豪族末次氏の居城があった亀田山に決定した。しかし二代忠晴が急逝した為、吉晴が次の幼年の忠晴の後見となって工事を着工し、四年をかけて完成した。途中、堀の掘削や石材の切だしや運搬、石垣積みに多大な労力を要したが、城造りの名人と言われた吉晴の城だけあって、絶妙な折れを多用した強固な防備を持つ城となった。ところが工事完成直前に吉晴が死去、更に忠晴に嗣子なく堀尾家はわずか三代で断絶した。次に入封した京極忠高も参勤交代中に病没、断絶した。その後家光の従兄弟、越前松平直政が入封、時勢を的確に見極め、職制・政教を確立し、治水・殖産に尽力し藩政の基礎を築いた。しかしその後の藩財政は苦しく、タタラ製鉄の買上制、櫨から作られる蝋燭の専売制等収入増加策、江戸藩邸の冗費・冗員の支出削減を図ったが、自然災害、火災等が重なり解決できなかった。その状況下、藩主不昧公は大名茶を大成し石州流不昧派を興し、茶器の蒐集をする等文人大名として名を残した。最後の定安は第一次、二次長州征伐に出陣、佐幕派の右翼と目されていたが、戊辰時尊王に統一、帰順を許された。 |
二の丸高石垣・南櫓・中櫓 |
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大手前から二の丸下段石垣・内堀 |
同から大手南総門・天守閣方面 |
同から外郭(県民会館)方面 |
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同から二の丸石垣・南櫓・平櫓 |
同から三の丸(県庁)・千鳥橋 |
同から二の丸南櫓・平櫓 |
三の丸表門跡・土橋 |
同から二の丸・大手門方面 |
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三の丸碑・二の丸南櫓 |
同から大手桝形虎口方面 |
二の丸に架かる千鳥橋(廊下橋) |
同 |
左側の内堀 |
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右側の内堀 |
二の丸下の帯郭 |
二の丸への南口門跡 |
同内側から |
二の丸南櫓 |
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同 |
二の丸平櫓 |
二の丸太鼓櫓 |
二の丸井戸 |
同番所跡(現トイレ)・天守閣 |
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同松江神社 |
三の門跡 |
同・本丸武具櫓台 |
二の門跡 |
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一の門へ |
本丸弓櫓台 |
本丸南多聞 |
本丸一の門 |
本丸西多聞跡 |
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一の門 |
鉄砲櫓台 |
同石垣 |
本丸東側石垣と下の帯郭虎口 |
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堀尾氏と忍者? |
天守閣 |
同 |
内部から南多聞 |
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本丸武具櫓台 |
同石垣・手前は武者走り多聞跡 |
天守閣・付櫓入口 |
同石垣・多門台 |
付櫓石垣・鉄砲狭間 |
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天守脇の祈祷櫓台 |
天守内部・井戸 |
同内の塩蔵 |
同内の兜の展示 |
天守よりの眺望・宍道湖 |
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同からの眺望 |
天守閣 |
北の門跡の北多聞台 |
同のひづみ多聞跡・乾の角箭櫓台 |
北の門跡 |
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同多聞石垣 |
同多聞石垣と後ろは角箭櫓台石垣 |
北の門跡多聞石垣 |
北の門前の奥去口の門跡 |
北の門方面・北多聞石垣 |
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北多聞石垣 |
同 |
同・天守 |
本丸東側石垣 |
同 |
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水の手門跡 |
同 |
同 |
同高石垣 |
本丸北東下の曲輪のギリギリ井戸跡 |
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同付近から天守北東下の階段状の石垣 |
同付近から水の手門跡方面を見る |
同・左にギリギリ井戸跡 |
馬洗池 |
天守東側の階段状の石垣 |
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同 |
本丸東側下の曲輪 |
天守台石垣 |
本丸東側屏風折れの石垣 |
同 |
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本丸武具櫓台石垣 |
三の門付近から本丸武具櫓台石垣 |
本丸東側下の曲輪 |
大手桝形虎口方面に下りる曲輪虎口 |
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同から二の丸下の段を見る |
同から大手桝形虎口の南総門跡を見る |
同南総門跡 |
同南総門跡 |
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同・石垣下に井戸跡 |
南総門・太鼓櫓 |
南総門から二の丸下の段・天守方面 |
大手口 |
同外側から |
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同虎口土塁 |
同の堀尾氏像 |
二の丸下の段の東側土塁 |
同の内堀・北総門橋 |
同の内堀と櫓跡 |
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二の丸下の段 |
同から本丸ひふみ段の石垣を |
同から大手枡形虎口方面 |
同から本丸方面 |
同 |
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北総門跡周辺の土塁 |
同の石垣 |
北総門跡 |
本丸東側下の曲輪のギリギリ門跡・馬洗池 |
同ギリギリ門跡石垣 |
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同付近の井戸跡 |
馬洗池付近の曲輪 |
護国神社(北の丸) |
北の丸石垣 |
同 |
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同の井戸跡 |
搦め手門方面の内堀 |
同 |
同 |
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同 |
同 |
小泉八雲宅 |
同 |
武家屋敷街 |
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同 |
同 |
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