日本の城跡

松江城(別称:千鳥城)


天守
 訪問日  H26年10月
 ポイント  現存12天守の一つ。城は南を大橋川と宍道湖に、東から北は泥田と沼に囲まれた天険の地にある。中枢部の石垣塁線は多重構造で複雑な折れを多用して防備を強化している。最高所に本丸を置き、二の丸・三の丸を階段状に配置している。本丸は一部を除き、周囲を多聞櫓で厳重に囲み、更に横矢を掛けるために、屏風折れや石垣に出張りを設け強固にしている。更に要所に二重櫓を配するなど軍事的色彩が強い。天守は外観四重・内部五階で地階があり、ふた付き狭間が7か所ある中央付櫓が入口。更に天守にもふた付き狭間が実に94か所を数え、屋根裏が隠し石落しになっている等極めて実戦面を重視している。特筆すべきは、天守地階左右の突上窓からの攻撃を想定した石打棚が地階内部にあることで、他の天守には見られない非常に攻撃的特徴である。また内部には籠城用に井戸や便所も付設していた。
 印象  50年ぶりの登城。観光客も多い。ここも高石垣が見事。県庁のある三の丸から登る。二の丸の櫓が復元されて一層見応えがある。いよいよ本丸へ、枡形の一の門を通ると、どんと天守が迎えてくれた。黒塗りの天守で結構圧力を感じる。久しぶりに天守に登った。外見からは石落しが見えなかったが、屋根裏に多くの石落しが隠されていた。階段も急で、大きな井戸もあり、まさに戦う天守だ。北の門を通り、天守の方面のひふみ段の石垣群もすばらしい。次に搦め手虎口から外郭へ、小泉八雲・武家屋敷跡を見る。おぼろげながらだが、やはり相当雰囲気が変わっていた。石垣・天守・堀・虎口等、すべてよし。質素に、しかしがっしりとした城だ。
 地図  
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略史  関ヶ原の役後、堀尾吉晴が浜松から出雲・隠岐両国に加増移封された。当初、出雲守護職の居城月山富田城に入城、大規模な改修を行った。しかし富田城が尼子氏の伝統を守った山城であり、領国の東に偏っていた為新城築城を考え、領国のほぼ中央に位置し、水運に恵まれた交通の要衝、松江に白羽の矢を立てた。松江には尼子合戦の際に毛利軍の前線基地となった要害の山、洗合山があったが、城地が広すぎて維持困難としてその東にあって、かってこの地方の豪族末次氏の居城があった亀田山に決定した。しかし二代忠晴が急逝した為、吉晴が次の幼年の忠晴の後見となって工事を着工し、四年をかけて完成した。途中、堀の掘削や石材の切だしや運搬、石垣積みに多大な労力を要したが、城造りの名人と言われた吉晴の城だけあって、絶妙な折れを多用した強固な防備を持つ城となった。ところが工事完成直前に吉晴が死去、更に忠晴に嗣子なく堀尾家はわずか三代で断絶した。次に入封した京極忠高も参勤交代中に病没、断絶した。その後家光の従兄弟、越前松平直政が入封、時勢を的確に見極め、職制・政教を確立し、治水・殖産に尽力し藩政の基礎を築いた。しかしその後の藩財政は苦しく、タタラ製鉄の買上制、櫨から作られる蝋燭の専売制等収入増加策、江戸藩邸の冗費・冗員の支出削減を図ったが、自然災害、火災等が重なり解決できなかった。その状況下、藩主不昧公は大名茶を大成し石州流不昧派を興し、茶器の蒐集をする等文人大名として名を残した。最後の定安は第一次、二次長州征伐に出陣、佐幕派の右翼と目されていたが、戊辰時尊王に統一、帰順を許された。

二の丸高石垣・南櫓・中櫓

大手前から二の丸下段石垣・内堀

同から大手南総門・天守閣方面

同から外郭(県民会館)方面

同から二の丸石垣・南櫓・平櫓

同から三の丸(県庁)・千鳥橋

同から二の丸南櫓・平櫓

三の丸表門跡・土橋

同から二の丸・大手門方面

三の丸碑・二の丸南櫓

同から大手桝形虎口方面

二の丸に架かる千鳥橋(廊下橋)


左側の内堀

右側の内堀

二の丸下の帯郭

二の丸への南口門跡

同内側から

二の丸南櫓


二の丸平櫓

二の丸太鼓櫓

二の丸井戸

同番所跡(現トイレ)・天守閣

改修工事前の興雲閣

同松江神社

三の門跡

同・本丸武具櫓台

二の門跡

一の門へ

本丸弓櫓台

本丸南多聞

本丸一の門

本丸西多聞跡

一の門

鉄砲櫓台

同石垣

本丸東側石垣と下の帯郭虎口

堀尾氏と忍者?

天守閣


内部から南多聞

本丸武具櫓台

同石垣・手前は武者走り多聞跡

天守閣・付櫓入口

同石垣・多門台

付櫓石垣・鉄砲狭間

天守脇の祈祷櫓台

天守内部・井戸

同内の塩蔵

同内の兜の展示

天守よりの眺望・宍道湖

同からの眺望

天守閣

北の門跡の北多聞台

同のひづみ多聞跡・乾の角箭櫓台

北の門跡

同多聞石垣

同多聞石垣と後ろは角箭櫓台石垣

北の門跡多聞石垣

北の門前の奥去口の門跡

北の門方面・北多聞石垣

北多聞石垣


同・天守

本丸東側石垣


水の手門跡



同高石垣

本丸北東下の曲輪のギリギリ井戸跡

同付近から天守北東下の階段状の石垣

同付近から水の手門跡方面を見る

同・左にギリギリ井戸跡

馬洗池

天守東側の階段状の石垣


本丸東側下の曲輪

天守台石垣

本丸東側屏風折れの石垣


本丸武具櫓台石垣

三の門付近から本丸武具櫓台石垣

本丸東側下の曲輪

大手桝形虎口方面に下りる曲輪虎口

同から二の丸下の段を見る

同から大手桝形虎口の南総門跡を見る

同南総門跡

同南総門跡

同・石垣下に井戸跡

南総門・太鼓櫓

南総門から二の丸下の段・天守方面

大手口

同外側から

同虎口土塁

同の堀尾氏像

二の丸下の段の東側土塁

同の内堀・北総門橋

同の内堀と櫓跡

二の丸下の段

同から本丸ひふみ段の石垣を

同から大手枡形虎口方面

同から本丸方面


北総門跡周辺の土塁

同の石垣

北総門跡

本丸東側下の曲輪のギリギリ門跡・馬洗池

同ギリギリ門跡石垣

同付近の井戸跡

馬洗池付近の曲輪

護国神社(北の丸)

北の丸石垣


同の井戸跡

搦め手門方面の内堀





小泉八雲宅


武家屋敷街