日本の城跡

高田城(別称:勝山城・大総山城・大津夫良山城)


本丸虎口方面
 訪問日  H26年 7月
 ポイント  備中・備後・出雲の国境に近く、美作街道と出雲街道が交わる要衝。また旭川水運を掌握する美作西部の重要拠点である。高田城は南流した旭川が大きく逆コの字に迂回する内側にあり、川沿いに二つ並ぶ北側城山に本丸と二の丸、南側太鼓山に出丸、西山麓に三の丸を配し、旭川が天然の堀となった要害の地である。当城の見所は北東の尾根続きと帯曲輪2直下の南西から南東斜面に28条の畝状竪堀群である。南面の傾斜が若干緩いことと、南から迫る宇喜多勢への備であった。
 印象 山城の岩屋城に行く予定を鬼ノ城で体力を消耗、比較的低い高田城に変更。町全体で城下町としてPRしているが、二の丸のグランドで野球をしていた学生に、本丸を確認するも全然分からず、がっかり。 まず役場付近の三の丸を見る。かなり開発されているが、発掘調査の結果,、遺構が発見され復元されている。その後、なんとか本丸への登城口を見つけ、登り始めるとすぐに土橋・堀切にあう。更に登ると、階段式の郭の三の壇・二の壇を過ぎ本丸へ。二の丸・三の丸は近世の陣屋形式であるが、本丸周辺は中世の城郭遺構であった。石垣など防御施設は少なく、天然の要害地形に守られた城。出丸は時間が心配で行かず。
 地図  
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略史  南北朝期、北朝方の真島郡の地頭職に任ぜられた三浦貞宗が築城。三浦氏は当初、下向せず代官を置いたが、戦国期には美作に下向し美作守護方の拠点、篠葺城を攻略するなど勢力を拡大した。その後、尼子勢との再三の抗争の後尼子氏に敗れ、三浦氏領は尼子氏に併呑されたが、尼子氏と毛利氏の抗争が激化すると、その隙をついて三浦氏の旧臣は貞勝を擁立して高田城を奪還した。三浦氏と毛利氏の高田城を巡る戦いは続き、三浦氏は宇喜多氏、尼子氏残党の山中幸盛氏らの支援を受けて毛利氏に対峙した。しかし毛利氏が備中を制圧すると、宇喜多直家の仲介で毛利氏に降伏し高田城は開城した。三浦氏没落後、高田城は毛利氏の属城となったが、その後の毛利氏と宇喜多氏の和議で、美作が宇喜多領となり、高田城は三浦氏の旧臣牧氏が入城した。関ヶ原の役後、宇喜多氏は改易となり、備前・美作は小早川秀秋領に、秀秋死後は森忠政が美作に入封、高田城は城番支配となった。そして森氏は五代で嗣子続かづ断絶した為、勝山は一時天領となり、高田城は廃城となった。その後徳川譜代で、かっての城主三浦氏と祖先を同じくする三浦明次が三河西尾から入封、高田城二の丸に新城を築城して立藩し、名も勝山城と改めた。矩次の時、鉄山経営をすすめ、峻次はシーボルトの高弟石井宗謙を藩医に招聘して天然痘予防に尽力した。幕末、長州征伐に出兵したが領内農民が軍夫・人足役への不満で逃散する事件が発生した。明治の廃藩置県で廃城。

遠望

三の丸から本丸方向

三の丸



同(役場)

二の丸・前方の山は出丸

二の丸から本丸

本丸への尾根道

堀切


登城道

竪堀

急崖の登城道


堀切

散らばる石


堀切

本丸へ

段曲輪

三の壇へ


同・二の壇切岸


二の壇へ


同・本丸切岸

本丸へ

同虎口跡

本丸


同発掘中


同切岸

同虎口跡



同下の曲輪

同下の曲輪



同の石類

数条の竪堀

急崖

竪堀

馬洗場(水場)


二の丸と出丸間の堀切に架かる木橋

城下町


高瀬舟が往来した旭川