日本の城跡

萩城(別称:指月城)

指月山遠望
訪問日 H21年 9月、H29年 5月
ポイント 関ヶ原以来の徳川幕府に対する毛利氏の怨念と野望の砦。吉見氏の山城を、新たに山麓の本丸を中心とする城郭を営み、山城と平城の二城が複合的に存在する平山城とした。特に指月山は背面が日本海に向かって切り立った断崖となり、山麓の館を三重の堀で囲み、これを海水を満たすとまさに海城、水城として要害堅固な城郭となった。同時に松本川と橋本川の天然の要害が城下町全体を要塞化した見事な構えを構築した。
印象 時間の都合で朝早く起き、食事前に駆け足で城跡に。寺町・外堀・武家屋敷群等城下町の雰囲気あり。指月山の麓に本丸はじめ天守台・石垣・堀が残っている。海・川の自然を利用した城郭。今回指月山、武家屋敷群を見られなかったので再訪したい。再訪。城の内部は初めて。総石垣づくりの城で、建物はないが、石垣が至る所にあって感激した。念願の指月山の詰城も登城。山頂の詰城ながら、さすが毛利家の城で、規模も大きく、石垣で固めており見応え十分。本丸に石切場があるのにはびっくり、巨石に石切の痕跡が残っていた。今回は城下には行かず、中途半端な気持ち。
地図
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略史  関ヶ原後、西軍の総大将だった毛利輝元は徳川家康との所領安堵密約にもかかわらず中国一円の太守から防長二国に減じられた。更に、輝元は防府の桑山、山口の高嶺、長門の萩の順で候補地としたが、幕府は第三の候補、山陰の寒村萩を許可した。この冷たい仕打ちは毛利氏に深い怨念を残した。萩は以前、津和野城主吉見正頼の隠棲の地で山城があった。輝元は阿武川の下流、松本川と橋本川との間に形成されたデルタの西北端、指月山一帯に築城した。そして元就の四男元清の子秀元に長府を、元就の二男元春の長子吉川広家に岩国を、二男就隆に徳山を分与して体制を整えた。また検地の実施、家臣団の八組の編成、藩法典”万冶制封”の制定等藩体制を確立していった。しかし財政は家臣が過剰なこともあり慢性的に困窮し、敬親の時村田清風、周布政之助を登用し天保、安静の改革を断行した。政治的には尊王攘夷派が主流となり外国船を砲撃した下関戦争を引き起こしたが無力を痛感、藩は奇兵隊を中心とした農町民、脱藩浪士らが参加した新しい混成精鋭部隊を編成した。またこの時,位置及び海防上の理由から本拠を幕府を無視して山口に移し、以後山口藩と称した。
遠望・菊ヶ浜
 
同・先端に荒川櫓台
同・紙櫓台
 
二の丸東門
同食違い
   本丸天守台
    本丸内堀
   二の丸石垣
    二の丸

   二の丸土塁
     中堀

     外堀
     
寺町・保福寺
町中
熊谷美術館

乗せてよう!
円政寺
 
江戸屋横丁
 
同・木戸孝允旧宅
旧久保田家(赤い格子)
菊屋家
菊屋横丁
 
田中義一旧宅
高杉晋作旧宅
武家屋敷街
 
 以下再訪時撮影分

三の丸・旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
 
      同

旧南門、手前に中堀があった

   南門枡形石垣
  同・毛利輝元公像
     同石垣
     同石垣

    同横櫓台石垣

    同石垣

二の丸土塁

大手

同・極楽橋
内堀
天守台

月見櫓台・内堀

本丸内門跡


同枡形

同枡形

同石垣階段

内門に繋がる石垣・合坂

本丸石垣

天守台方向内堀

内堀・石垣
雁木
天守台



同への階段

天守台

天守礎石

天守虎口

雁木

天守台から大手方向

西方面の内堀

西方向の内堀・曲輪

正面に五十間長屋台

西方面の曲輪
西から天守台方面

西門跡方面

西門跡

岡崎櫓台

門櫓台

同・指月山

石垣


八間櫓台


石垣

洞春寺石垣

洞春寺跡


昔は海

内堀・天守台


本丸御殿跡

同(志都岐山神社)

本丸御殿跡

移築、梨羽家茶室

庭園

二の丸東園

御台所門跡

同石垣

同石垣

潮入門跡



先端に荒川櫓台

海岸線の石垣

同・紙櫓台





同・華櫓台

同・中堀への引き込み口


本丸月見櫓台

二の丸石垣


東門枡形(内部)

同石垣

東門

東門・中堀

中堀(直線に改修)
天樹院墓所門
天樹院

武家屋敷街


旧福原家屋敷門

毛利家屋敷跡に建つ旅館北門屋敷

   武家屋敷街

城内に移築された旧福原家書院

詰丸へ

岩山

登城坂

詰丸石垣

加工石

詰丸虎口

詰丸石垣

詰丸土塀

虎口

同内部より

詰丸要害櫓門跡



詰丸二の丸
詰丸本丸棟門跡

本丸石垣

二の丸用水槽

本丸

本丸貯水池



本丸石切場



本丸埋門跡