日本の城跡
洲本城
略史 大永年間(1521頃)、水軍安宅治興が築城した。安宅氏は熊野安宅荘の出で、足利義詮のときに海賊退治のために来島し、以後島内に居住した。その後安宅氏は三好党と結んで勢力を伸ばし、洲本・由良・炬口・安平・岩屋などに安宅八衆として支配した。その後安宅氏は三好元長の三子・冬康を養子に迎え、島内の豪族とともに三好党として兄の三好長慶の下で畿内に進出を図った。冬康らは河内・摂津での戦いで大いに活躍したが、兄長慶から謀反の疑いをかけられ河内飯盛城で殺害された。死後、信康が後継となり、織田信長の石山本願寺攻めの海上封鎖に協力し毛利軍と戦った。封鎖完成後信康は死去、弟清康が洲本・由良城主となった。天正九年(1581)、羽柴秀吉は、淡路に侵攻し岩屋城、由良城を陥落させ、短時間で島内を攻略した。清康は信長に許され本領を安堵されたが、間もなく病死し安宅氏は滅んだ。洲本城には淡路の有力水将菅氏が入城したが、本能寺の変が勃発、秀吉は中国攻めの帰路に、淡路の完全征伐を目論み洲本の菅氏を降し、志知・郡家城を開城させた。秀吉は四国の長曾我部氏の備えとして、仙石秀久を洲本城に置き、淡路水軍を統率させた。仙石氏は小牧・長久手の戦い、雑賀攻めに参戦、更に羽柴秀長の四国攻めの前線基地として洲本・岩屋城に大軍を迎え入れている。これらの功で仙石氏は高松に移封、替って洲本に脇坂安治が、志知に加藤嘉明が入封し、淡路水軍の組織化にあたった。そして九州攻め、北条氏討伐に参戦軍功を挙げたが、、朝鮮出兵では九鬼・藤堂氏水軍らと序盤は大活躍して制海権を掌握したが、次第に李舜臣率いる朝鮮水軍に押され苦杯を舐めた。関ヶ原の役では脇坂氏は西軍として出陣したが、小早川秀秋らと寝返って本領安堵された。その後脇坂氏は伊予大洲城に転封、淡路は藤堂高虎が領有、更に翌年には姫路の池田輝政の三男忠雄に与えられ、忠雄は入部後由良成山に新城を築城した。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後は淡路の役割も低下し、忠雄は備前に移り、阿波の蜂須賀家政の子至鎮に加封された。淡路の治政は由良成山城の城番が管理したが、その後政治の中心を由良から洲本に移したいとの要請が幕府に許可され、時の城代稲田氏によって由良城は壊され洲本城へ移転された。この時洲本城は大改築され、近世城郭に変貌、北麓に蜂須賀藩の城館が造られた。稲田氏は幕府から淡路仕置職に任じられ、陪臣ながら大名格として明治を迎えた。しかし維新後、長年の蜂須賀家・稲田家の微妙な関係が、稲田藩の独立運動に反対する蜂須賀家の襲撃、いわゆる稲田騒動となって城下は血に染まった。そして稲田氏および家来たちは北海道移住開拓令で淡路を去り、ここに洲本城は終わりを告げた。 |
遠望 |
登り付近の郭石垣 |
同 |
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馬屋石垣 |
同 |
同振り返る |
大手門跡 |
同 |
郭石垣 |
虎口? |
日月池 |
東の丸下の腰郭 |
同 |
東の丸 |
同と腰郭 |
東二の門 |
同 |
同 |
同左側石垣 |
同右側石垣 |
東の丸石垣、下の巨石 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同の巨石 |
同崩れた石垣 |
武者溜り |
同 |
同 |
同にある東一の門 |
同 |
武者溜りの石垣 |
同の切岸 |
同の石垣 |
同にある門?(近年のものか) |
同の石垣 |
同 |
同 |
同からの太平洋 |
東の丸からの日月池、左上の柵内に井戸跡 |
東の丸石垣 |
東の丸 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同櫓台 |
同 |
同 |
同 |
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本丸方面 |
八王子木戸 |
参道に並ぶ鳥居 |
本丸下の中務母義郭の石垣 |
同石垣 |
同 |
東の丸石垣 |
本丸腰郭 |
同郭の石垣 |
本丸への虎口 |
本丸下の中務母義郭 |
同から本丸石垣 |
同 |
同郭石垣 |
本丸石垣・大石段 |
同南側虎口 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同 |
同の武者走り台 |
同天守 |
同石垣、右手奥に鏡石 |
同の北虎口 |
同天守 |
天守台石垣 |
西の登り石垣口 |
本丸からの洲本城下 |
本丸搦め手口石垣 |
同 |
同、前方は南の丸 |
西の丸途中の急崖 |
籾倉跡 |
籾倉付近の西の門跡 |
途中の帯郭 |
西の丸への道 |
付近から本丸方向 |
西の丸へ |
同 |
西の丸 |
同 |
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同の石垣 |
同石垣 |
同石垣 |
同堀 |
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本丸石垣 |
同 |
同 |
同 |
本丸から南の丸 |
同(梅園) |
同 |
同 |
同石垣 |
南の丸虎口 |
同 |
同石垣 |
同隅櫓台 |
郭石垣 |
同 |
馬屋 |
下の城 |
同 |
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