日本の城跡
明石城(別称:喜春城・錦江城)
略史 徳川家康は関ヶ原後、播磨を西国大名の押さえとして重視し娘婿の池田輝政を姫路城に配し、明石、三木にはそれぞれ家老を置き大名を監視させた。輝政死後嫡子利隆が幼少な為、これを鳥取に移し播磨を二分し姫路に本多忠政、明石に新城を築城して小笠原忠真を配置した。小笠原氏は城下町の整備と掘割に海水を引き船便を図り明石港を整備した。その後一時天領後、戸田松平・大久保・藤井松平・本多氏と入転封を繰り返したが、いずれも新田開発に注力した。ついで家康の曾孫松平直明が入封し定着した。直明も新田開発に努めたが、河川工事、朝鮮通信使の饗応等で財政は逼迫し、家臣の俸禄減給、上米をも命じたが効果はなかった。更に11代将軍家斉の子を養氏に迎え加増を受けたが、家門としての諸費用が嵩み一段と財政は困窮した。幕末、ペリー来航で品川警備、第二次長州征伐、鳥羽伏見への出兵の為鎮撫使の追討を招いたが、宗家松平春嶽の取成しで難を逃れ、戊辰時は新政府軍に従い越後に出兵した。 |