日本の城跡

船上城(別称:明石古城)

本丸
訪問日 H22年 2月
ポイント 船上は明石川河口右岸に発達した集落。この地に城が設けられたのは室町中期の嘉吉の変頃で、山陽道の陸路と瀬戸内海の水路を扼する地であった。周囲は湿地で平城であるが水城であった。右近は船上川の河口部、密蔵院裏の芦原に港を築き、藩船の繋ぎ場とし、更に堺に来る貿易船の中継基地とした。右近は船上をキリシタン伝道の中心地とする理想を持ち、海に臨む地に大教会と大十字架を建てている。
印象 明石海峡に面した、湿田の中に建つ水城で、城作りの名人高山右近が築城したが明石城が築城され廃城に。ピストル形の本丸台地に小さな神社が残り、かすかな土塁と堀跡と思われる川がある。周囲は住宅が迫っているが、本丸周辺は田が残り、湿田地帯であったことが想像できる。城へ行く道が見つからず、強引に田を突っ切って入った。明石城の堀前に、船上城時代の武家屋敷長屋門が移築されている。船上城の石垣・建物等がかなり明石城築城に転用されたらしい。
地図
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略史  キリシタン大名の高槻城主高山右近は石山本願寺合戦や長篠合戦、山崎合戦に従軍し、しばしば軍功を挙げた。更に柴田勝家との戦いでも、羽柴秀吉の臣下で忠勤を励んだ為、明石地方6万石の領主に封ぜられ船上に築城した。右近はキリシタン伝道の近畿における中心地にしようとしたが、九州征伐から凱旋の陣中で突如として発せられた秀吉の禁教令によって右近は追放、船上のキリシタン教会等は破壊された。船上は秀吉の直轄領となったが、関ケ原後、播磨の太守となった池田輝政の家老、池田由之に与えられた。大阪役の軍功で小笠原忠真が入部し、幕府の命で新しい明石城を築き移った。このとき船上城の石垣などが取り壊され明石城の資材に転用された。
本丸
水堀・船上川
本丸跡の神社
明石城堀前にある船上城武家屋敷門