日本の城跡

御着城(別称:茶臼山城・天川城)

二の丸跡・城碑
訪問日 H22年 2月
ポイント 御着は天川の東岸に臨んで山陽道沿いに発達した。御着城は中世末期、別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の一つで、姫路城はその出城として機能していた。城は本丸、二の丸からなり、西・南は天川を堀に代用、北・東は四重の堀をうがって固め、山陽道や町屋を取り込んだ500mに及ぶ総構え城。
印象 今は殆んど遺構はない。二の丸が城跡公園になっている。役所の出張所が奇妙な城閣作りになっていた。国道2号線が城跡を真二つにしている。天川に架かっていた石橋が公園内に残されており、少し昔を思い出させる。
地図
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略史  姫路城主小寺政隆は赤松氏の本拠、置塩城では内訌が続き諸将間の争いが絶えなかった為、これらに対処するべく御着の茶臼山に築城し、姫路城には後継の則職を入れた。政隆は赤松義村を常に支援し、これに叛旗を翻す浦上氏と戦ったが、北方の庄山城に移った後に浦上氏に攻められ討死した。姫路城主則職は御着城に入り15年在城した後、子の政職に譲った。姫路城は重臣黒田重隆が預かったが、重隆の嫡子職隆は政職の猶子となり小寺姓を称した。戦国末期、織田・毛利の勢力が東西から播磨に及んできた時、政職に仕えていた職隆の子小寺孝隆は織田方につくよう進言したが、政職は別所氏との関係を断ち切れず毛利方に通じた。この為孝隆は小寺家を見限り、秀吉を通じて信長に仕えた。御着城は秀吉の中国攻めで、三木城落城の直前に開城し、のち廃城に。
二の丸跡 同・黒田家廟所 本丸跡方面 二の丸土塁 天川・堀
天川橋 旧山陽道 近隣の寺の三重塔
縄張り