日本の城跡

花隈城(別称:花熊城)


花隈城公園碑
訪問日 H30年 3月
ポイント 城は毛利氏と石山本願寺の海上連絡を断つことを目的として築城したもので、東西350m、南北200mの海に向って突出した台地に位置し、かっては港が一望できた。東は生田川、西は宇治川が流れ、北は六甲山系の山波、南は西国街道と海が開けるという要害の地である。城郭は本丸、二の丸、三の丸の中核の郭を挟んで、東は侍町三丁、足軽三丁の屋敷郭、西には花熊町と三つ城下町であった。武家屋敷も城下町もすべてを堀で囲まれていた。
印象 一瞬、目を見張った。西洋の要塞を見ているようだ。高々と石垣を積んでおり、これは何だとよく見ると、花隈公園の石碑、そして石垣の内部は駐車場になっていた。なるほど、高低差のある台地の先端を上手く利用したものだ。当時の城郭も高石垣で出来た近世城郭であったようだ。今まで見た城跡の中で一番、驚かされた城だった。
地図
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略史  当城は織田信長が摂津を制圧した時に、大阪石山本願寺への西国毛利氏からの援助を断つために、荒木村重に命じて築城させた。しかし村重の部下が石山本願寺に物資を供給しているとの疑いをかけられた為、村重は信長への釈明は無理と判断し、信長に反旗を翻した。村重は滝川・明智勢に攻められ、有岡城に籠ったが、ついには城を脱出して尼崎城へ、その後西国に逃れた。信長は有岡城の支城である花隈城を池田恒興に攻撃を命じ、落城後は軍功として恒興に城は与えられた。しかし池田氏は花熊城を廃し、古材等を利用して兵庫城を築いた。

花隈城跡

同模擬石垣

上部の模擬天守台

城碑
福徳寺(旧殿主跡)